敗戦の日に寄せて「ひたすら道を求めて」
― 祖父が孫に語る戦後日本と信仰 ―
孫 中島誉主也(よしゅあ) 今年も敗戦の日を迎えます。30代の私には、「敗戦」ということがそれほど身近には思えませんでした。けれど4年前、父が私たち兄弟を、祖父母の住む岐阜県の下呂(げろ)に呼び集めた時(上写真)、祖父がこう話してくれました。
祖父 中島信義 ぼくは若いころは体が弱くてな。戦争の末期で、みんな志願して戦争に行く中、19歳になって、1年繰り上げの徴兵検査に受かった。それで、「昭和20年9月1日に松江の航空隊に入営」の召集令状が届いたので、伊勢神宮にお参りして、戦争に行く準備をしておったんだよ。
ぼくは、多くの同胞と同じように、特攻してお国のために死ぬつもりでおった。
それが、3月にはアメリカによる東京大空襲があって、10万人が焼け死んだ。沖縄でも、6月までに20万人が犠牲となり、8月には広島、長崎に原爆が落とされて、一瞬にして十数万人が焼き殺された。
8月15日に敗戦になったけれど、そういうところを通った者としては、ただ生き残ったではすまされなかった。
当時、勤めておった工場で玉音放送を聴いた時は、涙が止まらなくてな。日本が負けるなんて思ったこともなかったから、あの絶望を忘れることはできない。
敗戦がおじいちゃんにとって、大きな挫折となったんですね。
そうや、落胆したというか、これから何のために生きていったらいいのかわからなくなった。日本のために、この身をささげて死んでいくつもりやったからな。
敗戦を迎えて、それまでみんな神国日本といって、神を信じておったのが、だれも神のことを言わんようになった。神国日本とは虚しい神頼み、結局は未開人の盲信にすぎなかったのか! という、たまらない思いがあった。
神国という理想をもっていたおじいちゃんが、どうしてキリストを信じるようになったのですか?
ぼくは、最初はキリスト教には抵抗があってな。敵国アメリカの宗教だったからね。
でも、「イエス・キリスト」という名前を聞くと、何か聖なるものを感じてな。キリストの神様がどんな神様か知りたくて、敗戦から6年たってようやく、当時住んでいた岐阜の大垣にある教会に行くようになった。
復活節の朝に
最初は教会に3年ほど熱心に通ってな。だけど牧師さんに「今はキリストの神様には会えないんですか?」と聞くと、いろいろ説明してくれて、「会えないけれど、イエス様の再臨を信じる。それが今の信仰の時代です」と言われた。
その帰り、今はキリストに会うことができないと思うと、何だか虚しい思いになってな。何にも希望を見いだすことができなくなった。
それでも、受難週が来た時に、仕事も休んで十字架の膝下(しっか)にぬかずくように毎日祈ってな。聖書には、神様から名前を呼ばれた、という記事がいくつも書かれてあるけれど、ぼくも名前を呼んでほしいと願っとったんやな。
そうしたら復活節の朝方、まだ暗いうちにぼくの部屋の入り口から突然、パーッと光が射してきてな。復活のキリストが現れてくださった! とびっくりしてその場にひれ伏した。「すみませんでした。あなたがいつも一緒におられることを信じていませんでした」と、手をついてその方を拝した。
その時、「のぶよし、のぶよし」 と声をかけられてな。パッと顔を上げると、神様の心の中に入ってしまったようになった。
「おまえの呻(うめ)きは聞いた。わたしは日本から新しいことを始める」という黙示を聞いたんやな。
ぼくは日本が戦争に負けて絶望しておったけれど、神様はぼくの心の内にある悩みを覚えてくださっていた。それで、日本人の先祖が目指した「神国日本」という理想は、これから始まるんだ! と示されたんやな。
神の興した原始福音
すごい体験ですね。その後どのようにして、原始福音の信仰を知ったのですか?
最初は、キリストに出会ったことを教会で話そうと思ったんやな。自分の体験を紙に書いて、冷静に話そうとしておったけれど、内から込み上げるものがあってな。壇上で仁王立ちになって、
「キリストは生きておられる!」
と叫んだんやな。みんなびっくりして、教会から追い出されてね。そりゃそうやと思う。ぼく自身が驚いたんだから。
その後、下呂の実家に帰ったんだけれど、あれは精神異常だったんじゃないかと自分でも思ってね。そんな時に、教会の知人から『生命の光』と『エリシャ伝講話』という手島郁郎先生の本を渡されてな。読んで驚いた。これは学者や研究者が書いた本やない。ほんとうに神様に出会った人でないと書けないと思った。
それで、車を運転して大阪で開かれている集会に行ったら、手島先生はそれまで会った牧師とは全然違う。ひげを生やして、まるで昔の武士のようやった。
最後、祈っておったら先生が来られて、ぼくの頭に手を按(お)いて祈ってくださった。そうしたら温かいものがジーンとしみ通っていってね。涙は流れるし、体が熱くなってね。もううれしくてうれしくて、帰りはどこを走ったかわからんかった。宙を飛ぶようにして、賛美歌をうたいながら帰った。
それから仕事も全部引き払って、妻と子供を下呂に置いて、手島先生のもとに信仰を学びに行ってな。だれにも理解されないと思うけれど、神様がほんとうに日本に新しいことを始めておられると知って、希望がわいてならなかったんやな。
先生に師事して大阪から東京へとついて行き、徹底した信仰で生きることを教えていただいた。ある時、先生が「中島くん、君の家族を呼びなさい。君にはもっと豊かな、家庭の愛をもつ人になってほしい」と言われたんやな。
そうやっておじいちゃんが、一度は家族を捨ててでも真の信仰を求めて生きてくれたから、父も私も曾孫(ひまご)に至るまでみんな、今ではキリストにつながっているんですよ。
私も人生に迷うことが多かったけれど、おじいちゃんの生きる姿を見て、神様の愛に生きる喜びを知ることが始まったんです。
それは大切なことや。人の目から見たら危うい人生かもしれないけれど、ぼくはキリストのために生きてこられてよかった。
キリストの御血汐(おんちしお)
敗戦の絶望にあった日本を神様が顧みてくださって、幕屋の人々に聖霊を注がれた。ぼくたちもそれに加えられて、キリストの生命を与えられたんやな。
でもキリストが今も生きておられるということが、みんなわからなくなっている。ほんとうに聖霊を受けた者でないとわからない。
神様の愛を伝えるために生まれてこられたイエス・キリスト。十字架の血汐として流される神の愛、その血である生命を与えるためにイエス様が十字架にかかられた。ご自分が十字架で死ななければ、神様の生命である御血汐が与えられなかったんやな。
なんともったいない。そんな救いがどこにあるかな……。神様しかないよ、自分の命を捨てて、人を救うって。その血汐を頂いたから、神の生命が自分の体の中に還流するくらいになるんやな。だから神様と一体になって、神の子として生きられる。ぼくの中を聖霊が流れとる。そのことが、だんだんとわかってきたんやな……。
神様がぼくに示してくださった「日本から新しいことを始める」ということが、現実になってきている。
幕屋は人の数は少ないけれど、この少数の群れを通して、必ず真の神の国として日本が立ち直る時が来る。ぼくはそう祈っている。
祖父は今年の4月、天に帰っていきました。イエス・キリストのことを話すと、いつも男泣きに泣いて、滂沱(ぼうだ)と涙を流し、最後は感謝の祈りをささげていました。
会社を経営しながら、祖父は多くの若者を家族のように愛していました。そして祖父の生きぶりが、私たち親族だけでなく、多くの人に感化を与えました。
言葉以上の実体、十字架の血汐が祖父に注がれていることが、理屈でなく伝わってきたからです。
わがため十字架に なやみたもう
こよなきみめぐみ はかりがたし
なみだもめぐみに むくいがたし
この身をささぐる ほかはあらじ
最後のころ、祖父がよくうたった賛美歌です。祖父が召天するひと月前に会うと、まるで天国を味わうようにも、平安に覆われたその姿に驚きました。そして、大きな手で、私の手をしっかりと握りしめてくれました。
祖父の、キリストから愛された感激、愛する日本への祈りは、私の中にしっかりと刻まれています。
中島信義
大正14年(1925年)、岐阜県下呂町生まれ。享年95歳。大阪、東京で長きにわたり食品販売業を営みながら、若者の育成に力を注ぐ。
中島誉主也
昭和59年(1984年)、山形生まれの37歳。大学卒業後、ソフトウェアのエンジニアとして働く。現在はフリーランス。(東京都在住)
本記事は、月刊誌『生命の光』822号 “Light of Life” に掲載されています。