聖書講話「日本国よ、永遠なれ!」ヨハネ福音書17章13~21節

手島郁郎は日本人としての誇りをもって生きたキリスト者であり、戦後の精神的な荒廃を嘆き、日本魂の回復を願っていました。
イエス・キリストは、ヨハネ福音書第17章の「最後の祈り」の中で、ご自身の内に流れていた神の生命が、人々の内にわき上がることを祈られました。これこそが、人間のあるべき姿を回復し、民族精神をも復興するのです。(編集部)

今日は17章13節から読んでまいります。これはイエス・キリストがこの世を去られる前の、最後のお祈りです。祈りを注解するということはすべきではありません。まして、その祈りが大きければ大きいほど、注解すれば意味が限定され、間違ってしまいます。これをそのまま、「アーメン、アーメン。そうだ、そうだ」といって読めるときが本当です。

「今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世(から)のものでないように、彼らも世(から)のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」

ヨハネ福音書17章13~16節

ここでキリストは、「わたしが世からのものでないように、彼らも世からのものではない」と言われ、「弟子たちをこの世から取り去らず、彼らを悪しき者、悪魔から守ってください」と祈っておられます。ここにキリストの祈りがあります。私たちはこの世におります。しかし、この世に属さない。そういう存在がキリストの弟子であります。

私たちは、罪のこの世におりますから、罪に染まりやすいです。この世は神を知らず、キリストに反逆するからです。だからといって、そこから逃れて山に籠(こも)ったり、修道院に入って清く美しい生活をすることが信仰であるかのように思うならば、それはキリストの信仰ではありません。泥沼の中にあっても蓮はきれいな花を咲かせます。また、魚は塩辛い海水の中を泳いでいても、その刺し身はちっとも塩辛くない。それは命があるからです。同様に、私たちは罪の世に住んでいても、内に神からの生命があるならば決して罪に染まりません。罪の世の中にあっても、私たちの魂は天に属していなければなりません。

ここに私たちの信仰があります。悪魔は私たちを殺して、神の生命を取ってしまおうとします。この生命を奪われると、すっかり罪の世のものになってしまう。しかし、私たちはキリストに守られ、私たちがキリストの生命に与(あずか)っている間は、外側は罪に染まっているようでも、罪に死ぬというか、自分の内面まで罪に染まるということはありません。

死に打ち勝つキリストの生命

1週間前、最愛の久保田豊先生が天に召されました。それで長崎まで駆けつけて、納棺式から告別式までずっと執り行ないました。私は聖書を講義し、神の国を宣べ伝えることを使命としていますから、葬式宗教のようなことは努めてしません。けれども、久保田さんを葬ることは私の友情です。久保田さんは、十数年に及ぶ私の大事な友人です。社会的にも非常に功績のあったお方で、あの原爆で廃墟となった三菱製鋼の長崎製鋼所を見事に再建なさった方ですから、それだけでも私は尊敬しております。また人柄が実に立派です。そして、私のような者をも「先生」と呼んで慕ってくださったことに深く感謝しております。それで、この半月の間に3度も、長崎へお見舞いに参りました。

最後にお見舞いに行ったのは、亡くなる2日前でした。骨髄までがんに蝕まれて、痛みと苦しみでたまらないようにしておられましたが、私がお訪ねすると、急に生き返ったようになって痛みを忘れ、「うれしいなあ、ありがたいなあ、感謝だなあ」と言われます。

唇も舌も乾ききって声も満足に出ないお身体(からだ)ですのに、心は平安そのものでした。呼吸困難も収まり、喜びにあふれて家族の方々に「おまえたちも喜べ、喜べ」と言われます。

死の床に臨む不思議な生命、これこそ主の御前より出ずる息づきの時です。久保田さんの身体は、もう死んでゆこうとしております。しかし、旺盛なキリストの生命が覆ってくる時に、死の苦しみや痛みすらも忘れてしまう。いよいよ臨終を前にした時、好きな黒田節を踊るから「歌え」と言われて、奥様に扇子を持たせて一緒に歌い、踊られたということです。真に「死は勝利(かち)にのまれたり」という聖書の言葉を、身をもって体験されました。

久保田さんは、ご自分に与えられた不思議な生命、死に直面してもわき上がる生命を、肉親の人たちに何とかして実証なさりたかったのです。だが、信仰を一つにしている奥様や親族の方は「よかったですね、お父さん」と言いますが、信仰のない人たちは、久保田さんは死ぬ前に少し頭がおかしくなった、としか思いません。

ここに信仰の問題があります。信仰のない人がどれだけ聖書を読みましても、聖書はわかりません。たとえば詩人の心には、夜空に光る星や野に咲く可憐な菫(すみれ)の花を見ても、何かを訴えてきて、生きている感動を覚えます。しかし、そのようにわき上がる心をもっていない人には、すべてが平凡で死んだように見えます。同様に、わき上がるような生命をもって聖書を読むならば、その一つひとつの言葉が私たちの魂に強く訴えてきます。

13節で「わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるため」と言われるように、私たちの中にキリストがもちたもうた生命があふれているときにこそ、宗教は力を発揮します。

一つの生命で結ばれる

「真理(真実)によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって(真実に)聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。
わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」

ヨハネ福音書17章17~21節

キリストは神に遣わされて地上に来られた。同様に、キリストは弟子たちを世に遣わそうとしておられます。その時に、「彼らのためわたし自身を聖別いたします」と祈っておられます。ご自分が神によって聖別されて、人間でありながら人間でないような生き方をなされている。そのように、今ここにいる弟子たちも、今後キリストに導かれてくる人々も、同様に聖別してください、との祈りなのです。

その根本は「わたしがあなたのうちにいるように、弟子たちもわたしにあるように」ということです。これは、キリストの生命と弟子たちの生命が一つであることを意味します。すなわち、キリストに流れている神の生命が、弟子たちの内にも共有されるように、と祈っておられるのです。信仰にとって大切なことは、この内なる生命があふれてくることです。この生命が満ちてこないうちは、何を語り何を読みましても、心に訴えてきません。

私は今朝、なかなか起き上がれませんでした。数日来の忙しさで肉体も精神も疲労困憊しているからです。こんな状況で聖書の講義などをすべきでないと思いました。それで、「神様、どうかあなたの生命を私にあふれさせてください。そうすれば、見るもの聞くものすべてが神を語るでしょう。そして、キリストの祈られたこの最後の祈りも『アーメン、アーメン』といって、光り輝いて、栄光を放って受け取れるでしょう。けれども生命があふれてこないならば、すべてが平凡で白一色になってしまいます。どうぞ神様、私にこの内なる生命をわかしてください」と祈りつつ、この集会場まで参りました。

このキリストの祈りを読みましてもわかるように、宗教は何かの理屈を信ずることではありません。大事なことは、自分自身にキリストがもちたもう生命が込み上がってくることです。そうでなければ、キリストのお言葉に共鳴共感するということはできない。

それでキリストは、ご自分に流れ込んできている生命がみんなの内にも同様にわき上がることを切に願われたのです。私たちの内に神の生命がわき上がるときに、私たちは真実に聖別されるのです。外側から聖別されるのではない、内側から聖別されるのであります。

イスラエル北部・ダン川の流れ

神の御声に衝き動かされて

キリストの説きたもうた宗教は、ちっぽけな自分が何かを信じたり、何かを行なったりすることではない。キリストがもちたもう大いなる生命が発動してくることです。そして、この大生命が込み上げてきますと、大きな喜びがわいて不思議な知恵がわいてきます。

それについても久保田さんのことを想います。久保田さんは三菱製鋼の社長を退かれると、ロータリークラブ(※注)の西日本地区のガバナーとして、その普及のために寧日なく実に精力的にご活躍になり、わずか1~2年の間に70余の支部を作ってしまわれました。

「こんなにロータリークラブの仕事ができたのも、原始福音の信仰をもったおかげだ。もしもこの信仰をもっと早く、三菱製鋼時代にもっていたら、どんなに会社を大きく伸ばすことができただろう」と残念そうに言っておられました。至るところの町々で、錚々(そうそう)たる実業家たちを前に講演なさる時はいつも、結局はキリストの証しになりました。

久保田さんは単なるロータリアンではありませんでした。アメリカに始まりました国際ロータリークラブを、さらに一歩進めてご指導でした。

「Service Above Self サービス アバヴ セルフ 自分以上の奉仕」というのがロータリークラブのモットーですが、自分の力いっぱいならともかく、自分の力以上の奉仕というのは大変難しいことです。嫌々ながらやるならば、それは義務になってしまいます。それで久保田さんが「自分以上に奉仕しよう」と言うとクラブ員が嫌がるので、言わないことにしている。けれども、それでは具合が悪い。それで悩んで私にご質問でした。だがお話ししている間に、「Service Above Self とは『自分以上』の奉仕ではなく、『超我(ちょうが)』の奉仕、自分以上の我(われ)、神なる我の力に助けられてする奉仕ではないか」と気づかれた。

かつて長崎の町は、原子爆弾によって一瞬のうちに焼け野原となりました。長崎製鋼所は原爆の真下にあって、すっかり廃墟となりました。その時、久保田さんは地下室におられて奇跡的に助かりましたが、地上は死屍累々(ししるいるい)たる焼け野原です。茫然となりながらも、そこで祈られた時、「恐るな、起(た)て、汝(なんじ)を助くる者多し」との神の御声を聴かれました。

それ以来、人々が「戦争も終わって、今どき鉄鋼の需要なんてあるものか」と嘲笑(あざわら)う中にも、この御声に励まされて、ついに製鋼所の復興を成し遂げられました。

「久保田さん、あなたは復興に当たって、神の声、The Above Self ジ アバヴ セルフ(自分以上の者)の声に導かれて奉仕なさったではないですか」とお話ししたことです。

(※注)ロータリークラブ

20世紀初頭に米国で始まった、さまざまな職業人、実業人からなる奉仕団体。人道的奉仕や職業倫理の確立、国際親善を目的とする。世界200カ国に3万数千のクラブが存在し、120万人を超える会員(ロータリアン)を擁する。ガバナーは国際大会で選ばれる地区の管理役員のこと。

超我の発見

それからというもの、久保田さんは、「超我(スーパー・エゴ)の発見、これが真の宗教であり、事業上の動力だ」と言って、日本各地のロータリークラブで話されました。アメリカに行かれた時も、かの地のロータリークラブで力説されたそうです。すると、国際ロータリークラブの会長、その他の幹部が非常に驚いて、「ロータリークラブのモットーが、日本に伝わったら新しい光を得て、新しい解釈となった。確かにそうだ」と言って喜ばれたそうです。

Service Above Self のスローガンも文字どおりに取りますと、自分以上に奉仕せねばいけないと思って、苦しむだけです。しかし小さな自分ではない、大我ともいうべき超我に目覚めて活動するならば、驚くべきことができるのです。イエス・キリストが一個の普通の人間でしたら、大した活動はできなかったでしょう。だがイエスには、父なる神からの生命が、神なる我が臨んでいましたから、偉大なことを成しえたのです。

イエス・キリストはこの世を去るに当たって「父なる神よ、あなたがわたしに賜った生命を、霊を、どうぞ弟子たちにも与えてください。そしてその生命で、どうか実り多い不思議な生涯を送ることができるように」と祈られ、その成就を切に願われているのです。

このことは、経験しなければどうしてもわかりません。しかし、ある拍子にこの生命が私たちにもわきはじめたなら、見るもの聞くもの、すべてが変わって見えてきます。この世にありながら天国にあるごとくに生きることができる。そして、昔の自分ならとてもできなかったであろうことすら成し遂げて、地上に神の栄光を現すことができるのです。

我(われ)ならぬ我、神なる我の力が人間に臨むときに、霊的なる我、超我が私たちから発動して驚くべきことを成す。これこそ宗教の題目であります。

生命がわき出してくるときに

キリストは、「父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」(21節)と祈られました。

キリストが神の世界から出てきて、神に遣わされてきたということをどんなに説明しても、わかるものではありません。しかし、ここに「みんなの者が一つとなる」とありますように、キリストに臨んだ同じ生命が私たちにも与えられるなら、途端にわかるのです。

キリストが最後に、ご自分の中に滾々(こんこん)とあふれ出る生命が弟子たちにも臨むようにと、なぜお祈りになるか。私たちはこの生命が涸(か)れてしまったら、何が本当であるかがわからなくなります。今の日本を見ても、精神的に荒廃してしまって、何が善であり何が悪であるかがわからなくなっている。私の育った明治・大正時代の日本は、まだ精神的な国でした。

先日、明治節(明治天皇の御誕生日、11月3日)に明治生まれの人たちに集まっていただき、「明治会」をいたしました。そして、皆様と一緒に国歌『君が代』を斉唱しました。その時に、私たちは涙があふれてたまらない気がしました。明治生まれの私たちにとって、『君が代』は神聖な歌です。ところが最近は、メロディーだけ流して歌詞は歌いません。

しかしこの間、昭和生まれの人たちの会をした時、一人の学生が「私は生まれて初めて、『君が代』を歌ってうれしかった」と言うのを聞いて、私はほんとうに感謝しました。

戦後の誤った教育のために、愛国心という糸が絶えてしまった。これは実に残念なことです。しかし、この国歌を涙ぐんで歌う時に、自分は日本人であるということを感じるんです。大事なのは私たちの胸に、あるものがわき上がってくることです。

いろいろな説がありますが、『君が代』が国歌である以上、これは日本の国に対して歌っているのです。天皇陛下は日本国の象徴です。今の多くの人は「象徴」を看板みたいに思っていますが、そうではない。日本国というものは必ずしも目に見えませんが、その統合のシンボルとして天皇を認める、というのが今の憲法の立場です。

しかし、私たちのように明治、大正、昭和と生きてきた者にとって、天皇の象徴性というものは、今の人たちが知っているのとは違って、ほんとうにありがたいものでした。「天皇陛下」と思うだけでも襟を正さなければならなかったほど、その象徴性に意義と権威がありました。それが戦後の悪い教育のために、象徴というものの意義が失われてしまいました。それで、日本国というもののありがたさ、尊さ、そして日本国民として生まれたうれしさというものを感じなくなった。まるで魂を失ったようになって、精神的なもの、大いなるものに感動しなくなりました。だから、聖書を読んでも感動しないのです。

民族精神の復興

もう一度、私たちに愛国心がわきだしたら、理屈を超えて「日本国よ、永遠なれ!」といって『君が代』を歌いたくなります。

アメリカの教会でも国歌を歌う時は、皆居ずまいを正して、敬虔な気持ちで歌います。しかも多くの人は胸に手を当て、「星条旗よ、永遠なれ」といって、自分の命は合衆国にささげたといわんばかりに、誇らしげに歌います。私は、アメリカ衰えたりとはいえ、まだ脈があると思いました。日本は戦後、少し産業が復興したというけれど、世界経済が崩れる時に、このままではいつガターッと落ちてしまうかわからない。

日本人に精神的活力というものが沸きたたなくなった時に、何が残るでしょうか。かつては多くの人々がこの日章旗をシンボルとして、「日本国よ、永遠なれ!」と思って日本のために戦い、死んでいったものです。しかし、今の時代はそれが失われてしまいました。戦後の日本人は、全くお金の奴隷です。そして立身出世することだけしか考えない。魂が麻痺(まひ)してしまっているから、何が善で何が悪かもわからなくなってしまった。

キリストの「最後の祈り」を注解して、定義や言葉の言い換えをするのは愚かなことです。それは、キリストの祈りを冒瀆(ぼうとく)することです。それよりも、「主よ、あなたの内にわき上がっていた御霊を、生命を、どうぞ私にも与えてください」と祈ることが大切です。

起立して日章旗に対して国歌を斉唱、そして、イエス・キリストの「最後の祈り」を読んで皆で祈りとうございます。(国歌を斉唱し、ヨハネ福音書17章すべてを読んで祈る)

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』828号 “Light of Life” に掲載されています。