聖書講話「幸いなるかな!」詩篇第1篇
詩篇第1篇は、ヘブライ語の原文では冒頭から噴き出るように「アシュレー 幸いなるかな」という言葉が発せられています。主イエスは、マタイによる福音書の「山上の垂訓」冒頭から、「幸いなるかな」という言葉を何回も語っておられますが、それと同様です。
ですから、この詩篇第1篇の1節は、「幸福だなあーっ! 悪しき人々のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、神の座に来てよかったなあーっ、自分は!」と解すべきです。
詩篇の序文ともいうべきこの第1篇が、この「アシュレー!」の喜ばしい叫びで始まっている。詩篇全150篇、いや聖書全66巻は、この幸福の秘訣を何とかして伝えようとするにほかなりません。
幸いだ! 悪しき者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
嘲る者の座にすわらぬ人は。
このような人は主のおきてを喜び、
昼も夜もそのおきてを口ずさむ。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もまたしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみ殻のようだ。
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪人は正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
(詩篇第1篇 一部私訳)
アシュレー!(幸いなるかな!)
この詩篇は、普通の人の解釈では「悪しき者や罪人の道に立って歩んだりしないならば、幸福が約束される」と、何か倫理的な教訓を説くもののように読んでいます。とんでもない間違いで、全篇にみなぎるのは、詩人の祝福の実感、恵福な体験そのものであって、未来の幸福の予約ではない。また、勧善懲悪の道徳を論じようとするのでもありません。
他の人たちのように「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の会に出席せぬ」というのも、この詩人が「内なる幸福(アシュレー)」を知っているからにほかならぬのです。真の幸福の喜びが、溢れるように実在するのに、何ゆえ一般の人々はこれを知らないのか。知らないばっかりに、罪に走り、悪事に染まるのです。
毎朝、私は目が覚めると、いつも心臓がドキドキとして、目にはいっぱい涙を浮かべております。「嬉しいなあ、神様! 私はなんと幸せなんでしょう!」と口に叫んでいます。
私がひとり目を覚ます場所は、ベニヤ張りの粗末なあばら家、その書斎のべッド。頭の1尺先はもう路地で、両隣には連れ込み宿があり、毎夜遅くまで客足しげく、嫌な男女の話し声がうるさくて、寝られない晩もあります。しかし、こんな熊本市の中央、淫蕩な裏町にあるのに、私の心は天国さながらで、毎朝目覚めるとともに、もう幸福が河のように、海のうしおのように私を取り囲んでいます。この詩篇第1篇のように、「アシュレー! 幸せだなあーっ、私は!」と、ひとり内心に喜びを叫びながら、神への感謝で明け暮れしております。
想像の衝き上げ—善悪の根源
しかし、詩篇の第1篇の最初から、「悪」とか「罪」とか「嘲り」という語が出ており、また同様の言葉が詩篇の多くの詩中に幾百回も繰り返し出ていて、どうも目障りに思われます。何ゆえに「悪」や「罪」が存在し、発生するのか?
創世記第1章を見ますと、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(31節)とあります。ところが6章を見ますと、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう』」(5~7節)と言って、ノアの洪水を起こされた、とあります。創造の初め「はなはだ良かった」ものが、何ゆえ「悪」と化したのか。楽園追放どころか、大洪水で一掃して、人間を滅ぼしてしまおうと神様が思われるほどに、どうして最善の「神の似像(にすがた)」たる人間が最悪になってしまったのか?
現代有数の宗教哲学者であるマルチン・ブーバーは、「人間の心に思いはかることが悪い」とある点に注目して、このようなことを言っています。「『思いはかること(imagery イミジェリー)』は想像力というより、それによって生み出される結果である。その原語であるヘブライ語『イェツェル』は imagery impulse イミジェリー インパルス(想像せしめる衝き上げ)であり、これが良くも悪くもなる。人間そのものが悪くなったのではない。その心に思い浮かべること、想像の衝き上げが悪いのだ」
人間は本来よきものです。しかるにその心に思いはかる想像が悪いという。たとえば、テレビは元来よいものです。しかしながら、私の家では子供にテレビを見せません。この頃のテレビは、家庭の風俗を乱すような場面しか映らないからです。テレビ自身には罪はないが、放送される映像が悪いから、私はテレビをのけるか、スイッチを切りたいのです。すなわち作られるイメージが問題なのです。人間が悪いのではない、人間の作るイメージが悪いから、暴逆が地に満ち、悪の力がはびこったのだ、と聖書は神話的に善悪の根源を説いているのです。
イメージを作る力
人は神の像(image of God イメージ オブ ゴッド)に似せて造られた尊い存在です。その最も大事な特性は、イメージを描く力(imagery power イミジェリー パワー)です。これは無から有を造られた神のごとく驚くべき素質でして、想像したことは善悪にかかわらず、どんなにしてでも実現しようと人間は駆り立てられます。
ユダヤの国が滅びて1900年、離散した民の1人、テオドール・ヘルツェル(注1)という男の胸に、もう一度シオンの地に国造りをしたいとのイメージが湧き上がった。そこからシオニズム運動は始まり、多くの人の胸を揺すって、近年のイスラエル建国とはなりました。この間、ユダヤ人は酷い迫害を世界各地で受けました。第二次大戦中には、600万人のユダヤ人がナチスの手で虐殺されました。こんな酷い目に遭ったら、もう理想を断念しそうなものだと思うのに、幾多の困難を乗り越えて、ついに最善のイメージを実現しました。
反対に、浮かんだイメージが悪いと酷いことになる。一浮浪青年ヒットラーの胸に「ドイツに第三帝国を建てよう」という幻が激しく衝き上げてきたら、瞬く間に彼の率いるナチスの勢力はのし上がり、ついに全ヨーロッパを征服し、このイメージを実現してしまいました。そのため民は塗炭の苦しみをなめ、罪もない多くのユダヤ人が殺され、あげくの果てにドイツは敗残の憂き目を見ました。
イメージというのは、考えて湧くものではありません。潜在意識の中から衝き上げてくる。それを実現しようと思ったら、人間は実現してしまうのです。
(注1)テオドール・ヘルツェル(1860~1904年)
ブダペストにて生まれる。『ユダヤ人国家』を著し、当時、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人の祖国建設を目指す、シオニズム運動を推進。第一回世界シオニスト会議を主導した。「イスラエル建国の預言者」と呼ばれる。
パン種の譬え
心の内から衝き上げてくるもの、それはパンを作るときの酵母(イースト)に似ています。酵母を小麦粉に混ぜると膨らんでパンになります。キリストは言われました、「神の国を何にたとえようか。パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」(ルカ福音書13章20~21節)。コリント前書にも「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい……わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか」(5章6~8節)とあります。
私たち人間は、ここでいう麦粉のようなものです。麦粉自身は悪くない。粉の中に入ってくるパン種の良し悪しによって、酸敗したパンにもなるし、よいパンにもなります。ですから、「おまえはどうしてこんな悪いパンになったのか」と、人間を咎めてはかわいそうです。「私はこんな罪のために生まれてきたのではなかったのに、どうして悪いことになったんだろう。どうして自分の運命はこんなに呪われているんだろう」と嘆く真面目な人々が多い。この問題に対して、聖書は「人間そのものはよいものだ。悪いのはむしろ人間に衝き上げてくるイメージだ」と答えていることが重大です。どうしたらこの悪しき映像(イメージ)の衝き上げから解放されるでしょうか?
聖霊の恩化
聖書において最も大事な戒めは何ですか。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、これです。なぜ、こんなに「神を愛せよ」というのか。愛とは2つのものが1つになる引力、憧れているものと結合せしめる力だからです。
水素はよく燃えるものです。酸素には物を燃やす性質があります。しかし、水素と酸素が結合すると、火とは全く違う性質をもつ「水」という第三の存在に変わってしまいます。同様に、汚いものしか湧かさぬような人間だった私も、日ごと夜ごと、神を慕いに慕っている間に、ついに神の霊に結ばれて清められ、神への愛は私を全く新しい第三の存在と変化せしめました。
私は15年前(1948年)に、阿蘇の地獄高原で死を求めつつも死ねず、神に嘆き叫びました。そして、不思議にもキリストの神霊に触れました。このキリストの霊が、味気ない麦粉である私に酵母のように混入すると、一変してうましきパンと化しました。それから私の行くところ、すべての人に我ならぬ第三の性質、神の子の性質が衝き上げる回心の奇跡を見るようになりました。私の心に指図を囁き、イメージを衝き上げる霊がすっかり違ってきたことを知りました。この聖霊の恩化の及ぶところ、どんな人の生涯にも同じく驚くべきよき不思議が起こるのを見ます。
ですから私たちが新年の初めに、まず何をおいてもしなければならないことは、自分の霊を清めるということです。自分の霊を導きつつある守護神と合一するためです。キリストは私たちを導くために、大勢の天使を遣わしておられるけれども、その人の心が他のものに向かって紛れてしまうなら、天使も働くことができない。かえって、よこしまな霊に機会を得させるばかりです。
最高の神の霊が人間に与えたもう感化はいかに驚くべく清く、貴く、愛に満ちていることか! すっかり、ただ一途にこの聖霊の指導下に入ることが、根本的に大切です。
兵庫の灘は名酒の産地ですが、ここでは冬の最寒期に酒を仕込みます。冬のいちばん寒い時は、雑菌の繁殖が抑えられるからです。その時、取っておきのいい麹を入れるから、いい酒が醸造できるのです。
今、白雪も寒く、冬です。もし、「私の人生は今、冬枯れのようだ」と言う人があるならば、今の時こそチャンスです。ここで古い麹をすっかり清算なさることです。
今晩ここで徹底的に聖霊に清められ、どうかキリストご自身が、麹の仕込みを一人ひとりにしてくださり、よい念願、破天荒な霊的イメージが湧くように祈ります。
トーラーの真義
このような人は主のおきてを喜び、
(詩篇第1篇2節)
昼も夜もそのおきてを思う(口ずさむ)。
「おきて トーラー」というヘブライ語は、律法であるよりも、「指図 direction ディレクション」または「諭し instruction インストラクション」と訳すべきです。道徳律ではなく、日常の実際生活の指針、当面する問題に対して囁かれる神の指図の意味です。神の囁き、神のお指図であるこのトーラーを口ずさむことこそ、千万の金銀に勝ります。神は人や情況によって違った指図をなさいます。それを記したものが旧約聖書ですが、これを誤って『六法全書』でも引くように、律法として現在の自分にしゃにむに適用するなら、かえって苦しい戒律の束縛となるのは当たり前で、これは「トーラー」の重大な誤用です。
「思う ハガー」という語は、「繰り返して口ずさむ」という意味です。主なる神霊の囁きがあまりに嬉しく、その実際的なお指図が適切で希望に満ちているので、朝な夕なに繰り返し口ずさみ、反復して自身に言い聞かせては喜ぶのです。
また、突然ひらめく神の囁きは、サーチライトのごとくに一瞬、心を照らします。自分の心に映ずるイメージを消さぬよう幾度も口にとなえ、心に牢記することが大切です。私がなぜ祈誓表というものをここで差し上げたかというと、新年にまず清められた気持ちになってキリストを見上げ、「主よ、私は何をいたしましょう。教えてください、お指図ください」と祈る時に衝き上げてくる思いを書きつけるためです。そして、「この祈りを今年実施しましょう。また一生涯かかって、こうした生き方をします」と祈っていったら必ず成ります。困難があっても必ず成ります。
このような人は流れのほとりに植えられた木の
(詩篇第1篇3節)
時が来ると実を結び、
その葉もまたしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
この詩の書かれたパレスチナは荒涼たる砂漠地帯ですが、川のほとりにだけは青々と木々が茂っています。神の生命の流れのほとりに育つ私たちに、神の御声はひたひたと心にしみ入るように語られ、その生命に潤されつつある間に、だんだんと魂が成長し、そのなすところは皆栄える。この「栄える ヤツリアッハ」は、結果がうまくゆく意味です。どんな困難があっても乗り切り、突破してついに志を貫徹し、成功することをいうのです。この聖霊の場で祈誓した年頭のイメージが実現し、年末にクリスマスを迎えたら、「今年はこの詩篇のとおり、神の指図に従って行動したので、ことごとく成功だったなあ」と言って、神の栄光を仰ぎ合おうではありませんか。
道に迷う罪
悪しき者はそうでない、
(詩篇第1篇4節)
風の吹き去るもみ殻のようだ。
悪しき者といっても、何も決定的に「善人」と「悪人」というものが存在するのではない。神の囁きに従って生きないから、あっちにぶらぶら、こっちにぶらぶらするばかり。外側はクリスチャンでも聖霊の中身をもたぬなら、もみ殻と同じで何らの実りもなく、麦を脱穀する時に風で飛ばされるもみ殻のように、風の吹き去るままに行き着くところは破滅以外にない。
「悪しき者 レシャイーム」「罪人 ハタイーム」という言葉が、詩篇には何度も繰り返し出ているが、何か道徳や善悪の倫理を問題にしているのではなく、人間の歩みに2つの道があることをいっているのです。1つは正しい道、神の義の道、もう1つは正しくない罪の歩み、嘲る者の悪の道です。正しくない道を歩いたら、どれだけ馬車馬のように働いたって、ついに目的地に達せず、風に吹き去られるもみ殻のように空しい努力が続くばかりです(「罪 ハター」は目標を失って道に迷うこと、「的外れ」を意味する)。神の義の道はその反対に、神に指図されて、ほんとうに栄えて目的を達成する。この意味で、「善」とか「悪」とかを、詩篇は論じているのです。
去年の初めのこと、私は祈っていて霊界に没入するような経験をもったことでした。私は薄暗い高低のある山や谷を上ったり下りたりしていました。「暗いなあ、疲れるなあ、もうずいぶん歩き進んだのに……」と思って、ふと辺りをよく見ますと、なんとぐるぐると同じ所を歩いていたのでした。その時、天使が「見よ、おまえの努力はほとんど実っていない。今年、ほんとうに自分の信仰を進めようと思ったら、自分勝手に歩くな! よく後ろ辺で語る者の声(聖霊の指図)を聞いて、そこがどんな山坂、死の陰の谷であっても進みゆくのだ。1年後振り返ってみたら、おまえがどれだけ進歩し、理想に近づいたかがわかる」と囁くのが聞こえました。
「天国の地形は複雑だ。天使に聞いて、よい近道、最短距離を歩こう」と、目覚めて思ったことでした。そして昨年は1年じゅう、ずっとそういたすことに努めてまいりました。
罪人の道がなぜ的外れであるか。自分が賢いと思い、より高い声に聞いて歩こうとしないから、結局、悪しき霊の想像の衝き上げに振り回され、やたらに自らさまようだけで、少しも目的地に着かないのです。
嘲る者とは、傲慢に高ぶっている者、己を神とする者です。そんな者たちが賢そうに人を批評する座—討論会、もしそこで批評や賢そうな決議がなされたとしても、何ら神に聞かぬ以上、真理の道ではない。彼らに従うことは、結局、破滅を刈り取る以外にありません。
主は正しい者の道を知られる
(詩篇第1篇5~6節)
それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪人は正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
神に聞かず、自分勝手に歩く者は、目標がないから、空しく歩き回るだけでなく、逆に信仰の正しい者の集会に対抗したり、神に祝福された者たちの集会を迫害したりする。そのような実り薄い、神なき魂の生涯、誰かがさばくわけでもなく、このこと自体がさばきです。
6節の、「悪しき者の道」というものがあるわけではない。ただ自己を過信して歩き回っていただけで、結局何も残らぬ。その歩いたあとは消えて空しい。自滅、すべて徒労でしかなかった。この空しい結果こそ、悪自らの招くさばきです。
「知る」はヘブライ語の「ヤダー」ですが、ブーバーも指摘するとおり西洋の神学者たちの誤りは、聖書の「知る」という概念を、哲学的省察による分析的な知り方に置き換えてしまっている点にあります。冷暖自知という言葉があるように、冷たさ、暖かさは考えてもわからない。触れてみてわかる。「アダムがエバを知った」とあるのも、男女の結婚を通して知り合う体認です。
私たちが神に知られ、神を知るということは、神がいよいよ身近に自分たちに接触してくださり、その熱い臨在感を覚えるほどにも親密な交わりに入ることなのです。
「主 ヤーウェ」も、普通は「在りて在る者」の意といわれますが、語源の「ハヤー」は「在る」よりも「現れ出てくる」です。見えざる実存の霊が立ち現れ、訪れることです。かつて天から降って燃ゆる柴の中に現れて、モーセに語りかけたもうたように、今も霊界からヌッとご自身を現して、親しく語りかけたもう臨在の神、これが主(ヤーウェ)であります。この神が絶えず私たちの手を取って道を教え、肌に触れるように共在して「なんじ右に行け、左に行け」と囁き、導きたまいます。この神の御手に導かれると、そこに道が備わる。すなわち神ご自身が道です。
それで主イエスも、「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり」(ヨハネ福音書14章6節)と言いたまいました。聖前に心へりくだって聞こうとする者に、主は恵み深く、歩むべき道を懇ろに慈愛をもって教えられます。主の御心に聞かず、自らの判断と心の衝動に任せて、ほしいままに行動するところに「罪」があるのです。人間は人生の路頭に迷って、「右に行くべきか、左に行くべきか」、その進路を選びきれぬ場合がしばしばあるから、神を畏れて生きねばならない。事ごとに神に祈って、お指図を仰がねば進まれぬ理由があります。
どうぞ、キリストの御思いが私たちの胸に湧くことが大事です。神は愛ですから、私たちが栄えゆくことを、勝利することをお望みです。幸福であることをお望みです。
ここで祈りながら、内側から湧くように、聖霊のインパルス、衝動が込み上げるようにイメージを描いてください。内なる囁きに聞きますと、開かれないような運命も開かれてきます。
この1年、主の御声に聞きながら不思議に導かれる生涯を経験しとうございます。年末には、主の囁きに、トーラーに、お指図に従っていったらほんとうに栄える、生命の川のほとりに植えられた私たちは、聖霊の水に浸されよかったなあ、と喜びとうございます。
(1963年)
本記事は、月刊誌『生命の光』2019年1月号 “Light of Life” に掲載されています。