沖縄本土復帰50年「誇らしかったあの日」
阿嘉昭成(80)
櫻田光恵(27)
沖縄が本土に復帰して、5月15日で50年を迎えます。沖縄で戦中に生まれた阿嘉さんに、本土で平成に生まれた櫻田さんが、当時のことを聞きました。
櫻田 私は以前、仕事で沖縄に住んだことがあって、沖縄のことをもっと知りたいと思っていたんです。
1972年5月15日の本土復帰の時を、阿嘉さんはどういう思いで迎えられましたか。
阿嘉 27年ぶりに米国の統治から日本に復帰して、自分たちは日本人だと、誇らしくてうれしかったですね。
櫻田 それまでの生活が、一変したんですか。
阿嘉 変わるのに、時間がかかったですね。特に、車の運転が左右逆でしょう。
櫻田 あっ、本当。そうですね。
阿嘉 それで、3年間は余裕を見て、やっと左右の切り替えができるようになったんです。
お金は、復帰と同時にドルから円に切り替わりました。それを喜ぶ人もいるし、ドルのほうがよかったという人も。いろいろです。物価が上がっちゃったから。
戦後の沖縄はアメリカの統治下にあって、重要な軍事拠点でしたけれど、住んでいる私たちの人権なんて無視されていました。
アメリカの兵隊が交通事故で人をひき殺して、みんなが騒ぐけれど、沖縄側は裁けない。米軍の軍法会議で、証拠不十分などでいつも無罪。ひどかったですよ。
私が子供のころ、大人の言うことをよく聞いて注意していないと大変な目に遭うから、怖かったですよ。遊ぼうと藪(やぶ)の中に入って、そこでもし米軍が演習をしていたら、弾に当たって死んじゃうかもしれない。
小学5年生の時に運動会の練習をしていて、屋上に大きな日の丸が揚げてあったんです。そうしたらサイレンを鳴らして、2台のジープが来たことがあります。
私たちにカービン銃を向けるものだから、先生が、「彼らは撃つかもしれない。手を上げなさい」と言って、みんな手を上げたんですよ。
そうしたらMP(憲兵)が走っていって、屋上まで登って、大きな日の丸をたぐって持っていっちゃった。
手鏡に姿を映して
櫻田 学生の時は、どういう未来を考えていましたか。
阿嘉 早く祖国復帰してほしいと思っていましたね。
そういう中で、沖縄にある幕屋を訪ねたんです。そうしたら、当時は許可されていなかったのに、集会室の正面に日の丸が掲げてあったんです。それはうれしかったです。
祖国復帰というのは、学生たちにも夢でしたからね。いつかは祖国復帰できるんだ、という希望をずっと燃やして、それが消えることはなかったです。
高校の時、音楽の先生が、『お富さん』という当時の流行歌について、「これはね、沖縄出身の人が作曲したんだよ」と誇らしげに言われて、みんなで歌ったことがあります。うれしかった。
先生は、「沖縄の人が本土でこんなに活躍しているんだ。だからあなたたちも誇りをもって、絶対にひがみ根性をもっちゃいけないよ」と言ってね。
卒業式の時に先生たちは、みんなに手鏡を下さった。
「これに自分の姿を映して、自分が日本人であるということを忘れるな」、そうおっしゃいました。
櫻田 復帰には、沖縄の方が声を上げたんですか。
阿嘉 そうです。実現するのはなかなか大変だったけれども。沖縄の人は深くえぐってみると、考えがいろいろでしょう? 赤い思想をもった人もいるし、中には中国から植民した人の子孫もいるんです。そういう人たちは、中国が近いんだ、と。けれど、人数は少なかったですね。日本に帰りたいという人が大勢。沖縄だけで独立したいという人もいましたが、少数でした。
阿嘉昭成 戦時中に沖縄で生まれ、戦後のアメリカ施政下に育つ。原始福音の信仰に出合い、沖縄で開拓伝道をした伝道者を慕って、信仰を学ぶため本土にまで行った。6人の娘の父で、孫は15人いる。
櫻田光恵 山口県出身。看護師として、沖縄県北部の診療所に勤務した経験がある。沖縄の素晴らしさを感じたが、アメリカの施政下にあった時代のことなどは、全く知らなかった。現在、東京都在住。
手島郁郎の沖縄への想い
櫻田 手島郁郎先生は、沖縄が本土に復帰すると真っ先にやって来て、幕屋の皆さんとお祝いされたそうですが、沖縄のことをどう思っていらっしゃったんですか。
阿嘉 手島先生はね、自分の故郷かのごとくに、沖縄の本土復帰をすごく喜ばれてね。飛行機のドアが開いた途端に、いちばん先にタラップを降りてこられた。
そして、沖縄幕屋に集まった私たちに、「沖縄の実存的な善さを知っている私は、他人が何と言おうと、沖縄の復帰を心から喜びます。35年前、沖縄を訪れた時の沖縄人は、心温かくありました。古き良き精神的伝統を生かしてください。沖縄が立ち上がるには、やはり精神的、宗教的なものでなければなりません。熱い愛のハートだけが、人を動かし、事業を完成せしめます」と語られました。
櫻田 沖縄を身近に感じておられたんですね。
私の印象なんですけれど、沖縄の方って、誇りがあって、沖縄の地を愛しておられるな、古き良き心につながっているなって。
阿嘉 それは、大事にしたいと思います。
手島先生の言われるように、原始福音の与える、込み上げてくる灼熱の歓喜と、殉教をもいとわない殉愛の渦が沖縄の人々に燃えたら、世界が一つの大きな霊の塊になるだろうと、私は夢みています。
未来のために
それで願っていることがあるんです。若者たちの姿を見ると、心を病んでいる人が多く、痛ましい事件も多い。けれどただ嘆いているだけではいけない、何かできることはないかと思います。
那覇港から高速船で1時間の所に、私の家内が生まれ育った座間味島(ざまみじま)があります。そこにはキリストの信仰をもって生きた家内の祖父や父が残した土地がたくさんありますが、今は荒れるに任せている状況です。
私と家内はそこに、若者たちが大自然の恵みと、信仰をもつ人々との交わりの中で育てられ、成長していくための場を整えたいと願っています。
実現するのは子供や孫の代になるかもしれないけれど、ワクワクしながらその備えをしています。
本記事は、月刊誌『生命の光』831号 “Light of Life” に掲載されています。