エッセイ「滴り落ちるしずくの中に」

穴井里奈

ぽとり…、ぽと…ぽと…。

初めてこのしずくを目にした時の、心臓がドクンと脈打つような感動を、今も忘れることはできません。

私は、熊本県阿蘇郡の南小国(みなみおぐに)という小さな町で、夫と一緒に小国杉の魅力を多角的な視点で発信しています。その一つとして、小国杉の葉から精油を抽出し、製品化しています。植物の香り成分を抽出してできる精油は、大量の原料植物からほんの少ししか採れない貴重なエッセンスです。今ではアロマテラピーや化粧品の香料など、さまざまな用途に用いられています。

主人の実家は製材所を営んでおり、いずれその工場を継いでいくということで、結婚後すぐに南小国での生活が始まりました。主人は、製材所の仕事以外にも、地元の銘木である小国杉をもっとたくさんの方に知ってもらうため、試行錯誤をしていました。

植物には油分が含まれていると聞き、私は「小国杉からも採れるのでは?」という安易な発想から、小国杉の精油抽出を独学で始めました。

材料は、伐採時に不要とされる杉の枝葉です。枝葉は山の隅に置かれたまま、長い時間とともに朽ちていきます。使い道がない物とされていましたが、その葉は柑橘(かんきつ)を感じさせるような、爽(さわ)やかで心落ち着くような香りがしました。

10年ほど前、下の子をおんぶしながらだれも使うことのない杉の枝をズルズルと引きずり、車庫でグツグツとその葉を煮て試験蒸留をする私の姿は、地元の人に「何してるんだ」と、とても心配されました。

でも、私の中には一つの確信がありました。それは、自分が神様に見いだされる体験をしたからです。

生まれた時から信仰をもつ家庭で育ちましたが、中学生のころから人の目が気になり劣等感に苛(さいな)まれていました。社会人になって介護の仕事に就くと、自分でも人を支えて生きることができる、とうれしくなりました。

けれども、ある方が亡くなられた時に支えることができず、失望し、自分を責めてしまいました。そして、神様にも人にも心を閉ざし、祈りの場から遠ざかりました。もう信仰を捨てて、だれにも会うことのない所で過ごしたいと思っていました。

ある日曜日の朝、その日は聖霊降臨節(ペンテコステ)でした。母から出席するようにと言われ、しぶしぶ集会に行くことにしたのですが、しまい込んだ聖書が見つかりません。捜して捜して、やっと見つけ出しました。

その時、突然、神様から捜されていたのは私だった、と気づいたのです。キリストの御愛に涙があふれました。自分でも驚くくらい、一瞬にして目の前の景色が一変しました。自分がどうこうではなく、神様が私のような者にも御目を留めてくださっていると実感しました。

私も価値ある存在として生かされている、と。

捨てられた杉の葉を洗浄して小さく刻み、熱してその蒸気を冷やし、また液体に戻す。工程が多く、時間のかかる作業です。それでも、気化した蒸気が液体となって、分液漏斗にぽとりと落ちた瞬間、私の心は脈打ち、うれしさともいえない不思議な感情がわきました。

その滴り落ちる液体一滴一滴に、量り知れない力と神様の恵みが隠されていると感じたのです。小さな一滴に神様の御思いが宿って、不要とされる物の中にも、大切なものが潜んでいることを教えられています。

地元の方たちに心配されながら始めた作業でしたが、今では町の産業としても認知されています。

滴る精油のしずくを見つめつつ、目に見えない神様のエッセンスが私にもあること、思いもしない恩寵(おんちょう)の中で生かされていることに、胸がいっぱいです。


本記事は、月刊誌『生命の光』865号 “Light of Life” に掲載されています。

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