コラム「冒険しよう!」
―ハラハラ、ときめきを失うな―
伊藤純男(『生命の光』誌編集員 35歳)
聖書の物語は至るところ、ワクワクドキドキの冒険に満ちています。まだ見ぬ未知の世界へと進んでいく話が、いくつもドラマチックに描かれているのです。
●聖書の人物●
たとえば、アブラハムという人物は、ある時、神様から「おまえは国も親族も全部捨てて、わたしが示す地へ行け」と言われました。普通なら、「え? どういうことですか? “示す地”って抽象的すぎません?」となります。ところが彼は、行く先を知らずに旅をするわけです。(創世記12章)
目には見えない神様を信じて歩み、今ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教をはじめ、世界じゅうで信仰の父として尊敬される偉人となっているんですね。
後の時代のモーセという人は、エジプトで王族に育てられましたが、同胞を助けて人を殺してしまい、遠くへ逃げます。その後、落ちぶれて羊飼いをしているところに神が現れて、「奴隷にされているイスラエルの民を連れて、エジプトを出ろ」と言われます。
「はい、わかりました……って、何百万人いると思ってるんですか! それに私、もう80歳なんですけど!」と戸惑いつつも、民を連れ、40年間荒野を旅しました。(出エジプト記2~3章)
聖書には、いくつもそういう物語が描かれています。そして出ていった先で、それぞれ当然のようにえらい目に遭う。しかし、苦悩しながら乗り越えていく時に、神の愛を知る、というのが聖書の物語です。
つまり信仰とは、冒険してハラハラするような状況で、心臓の高鳴りを感じつつ、神の愛を肌身で体験することなんですね。今でいうならば、仕事で、生活で、新しい扉を開いて、次のステージに飛び込んでみて開かれていく世界であり、生きる現実そのものです。
人は年を取り、知識がついて子供の時のようなときめきや好奇心を失うと、時間の流れが速くなるといわれます。ただ、白黒の時間だけが流れて、かつてワクワクドキドキしながら生きた日々が、まるで嘘のように消えていく。そのような人が本当の意味で充実した今を生きるために、信仰とは実に価値あるものです。
●恐るべし! キリストの弟子教育●
また、今の時代は何でも便利になって、精神的な力や生命力が衰えているように思います。スマホを持っていれば一日楽しく過ごせます。失敗したり、ケガしたり、痛い目に遭ってバカにされるようなこともなくなっている。
でも、失敗の中からよきものが生まれる喜びや、痛みを乗り越える熱情、バカにする周囲の目に立ち向かう勇気を失って、私たちの血が沸きたつことはありません。逆風にさらされ、アドレナリン全開の時に、人は新たな境地を発見します。
それこそ、イエス・キリストはめちゃくちゃでした。嵐が来ると知りながら、「舟を出せ!」と弟子たちに命じ、死ぬような目に遭わせます。そうした後に一声で嵐を鎮め、「おまえたちの信仰はそんなものか?」と諭されました。(マタイ福音書8章)
また、「財布も何も持たずに福音を伝えてこい!」と言って、弟子たちに旅をさせました。
そうやってハラハラさせながら、神様の深い愛に触れる体験をさせておられたのが、イエス・キリストでした。(ルカ福音書10章)
私はその真似事でもと思い、財布もスマホもすべて置いて、福音を伝える旅にしばしば出ます。
徒歩の旅はいいです。野宿しながら水を乞わなければなりませんが、車では気づけない野の花、人の温かさ、過酷な自然ともろに向き合う人間本来の姿を発見できます。何よりも、次にはどんなドラマが待っているのか、というワクワク感があります。
そして寒さに凍え、嵐に遭い、ピンチが訪れた時に、奇跡としか思えないような神様の助けがあるんです。そのような人生の宝とも思えるものを発見するために、私は旅に出て、冒険する喜びを失いたくないんですね。
新年です。ときめきが欲しい! そんなあなた! 思い切って、冒険してみませんか?
本記事は、月刊誌『生命の光』815号 “Light of Life” に掲載されています。