聖書講話「見えない世界を見る目」ヨハネ福音書13章31節

聖書は、人類に大きな影響を与えてきた偉大な書です。中でもイエス・キリストの言葉は、私たちを豊かな人生に導く力に満ちています。新約聖書のヨハネ福音書には、キリストが十字架にかかる前夜、弟子たちに語られた「最後の遺訓」が収められています。今回は、その宗教的に深い内容の箇所を読むうえでの心構えを語っています。(編集部)

さて、彼(ユダ)が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった」

ヨハネ福音書13章31節

新約聖書の福音書には、イエス・キリストの説教集のような箇所がいくつかあります。中でもヨハネ福音書13章の終わりから始まる「最後の遺訓」は、キリストが3年間、手ずからお導きになった直弟子たちに、最後にお聞かせになった決別の言葉ですから、最高の教訓と霊的な真理を含んでいます。それだけに、キリストがお話しになったことを弁(わきま)えるのは難しいことです。当たり前の学び方はできない、ある覚悟が要ります。

キリストは直弟子のユダに裏切られ、祭司、パリサイ人たちがご自分を捕らえにやって来る、その足音を聞くような恐ろしい状況で、この遺訓を語られたのです。先立ちゆくイエス・キリスト、そして、それを見送る弟子たちを、恐ろしい運命が、のみ込もうとしている。しかしキリストは、その運命を笑って受けて立っておられる。このような精神的、心理的背景を踏まえて読まなければ、この箇所はわかりません。

さて、今やユダが出てゆき、十字架の死が待っていることを自覚された時に、キリストは「自分は栄光を受けた」とおっしゃいました。死ぬということは悲しむべきことであり、つらいことです。しかし、キリストは死ぬに当たって、自分は栄光を受けた、ただ自分だけではない、神様も栄光を受けたもうた、とまで言い切られました。

キリストは、「わたしが父のもとに行ったら、助け主として真理の御霊がおまえたちにやって来る」(14章)と言われました。先立っていった者が、地上に残った者に自分の思いや思想を伝え、感化することができる、また、手助けしたり、保護を与えたりすることができる、ということを、この後ずっと語られています。

宗教において最も大事なことは、このような死んでも死なない確実な生命、永遠の生命があることを知るにあります。私たちは、死んでから天国に行くと思いやすいが、そうではない。「死生一如(しせいいちにょ)」でして、死ぬというのも生きるというのも同じことで、ただ状況が変わるだけなのです。

地上の姿が見えなくなっても

私たちは、死んだらこの世から消えてしまって、存在がなくなるように思うかもしれません。けれども決してそうではない。私たちの霊の生命は、消えることはありません。次の体を準備して、霊魂は永遠に生きつづけてゆきます。信仰がさえてくると、死後の世界がいよいよはっきりしてきます。私は人生の終わりが近づけば近づくほど、来世からの呼び声が、来世からのシンフォニーが、いよいよさやかに聞こえてくることを感じます。

人間は五感以外に、もう一つの感覚が目覚めてきますと、ずいぶん違う世界が開けてきます。宗教は霊的な、目に見えない世界を問題にするのですから、見えない世界に対する感覚、すなわち霊感がさえてこなければ、いくら議論してもわかるものではありません。

すべて見えるものは、見えないものから成り立っております。見えない神の生命が、一切の物質を、人間自身を、また社会を支えております。それで、見えるものが消えてしまう時に、見えないものだけが残ります。

イエス・キリストは、人間イエスとして地上の肉体をもっておられた時には、人間という枠に閉じ込められて、キリストという神の本質を現すのには制限がありました。それでも、実に素晴らしいお姿でした。キリストが、「わたしを見た者は父を見たのである」と言われたように、神という存在はイエス・キリストのお姿を見ると実によくわかります。

しかし、イエス・キリストの肉体が地上から消え、神の世界に帰られることとなった時、この見えない世界のことは、魂の目が開かれなければどうしてもわかりません。私たちは魂の目が開けますと、神の世界がありありとわかります。だが、それを欠いている人に「神を信じなさい、信じなさい」と言っても、なかなか信じられるものではありません。

「最後の遺訓」が語られた二階座敷を指さして(エルサレム 1965年)

魂のレンズを磨け

天文学において、中世まで天動説が信じられていましたが、ガリレオ・ガリレイらが望遠鏡のレンズで天体を観測したら、それまで信じられていたことが覆(くつがえ)ってしまった。そのように大事なことは、霊的な世界を見るための魂のレンズを磨くということです。魂のレンズが磨かれはじめると、「なんとこの神の世界は素晴らしいだろう」と感嘆するのです。

イエス・キリストがここで「最後の遺訓」という重大なお話をされるのならば、私たちはまず心構えを変えて、魂のレンズを磨いているのかを、それぞれが問わねばなりません。

たとえば14章4~5節に、「『わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている』。トマスはイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう』」とあります。弟子のトマスはわからないと言いますが、イエスの目から見たら、もう十分わかる素地があるのだけれども、今までの考え方にとらわれて、魂の目が曇っているからわからないのだ、というお気持ちです。

信仰というものは、本でも読んで何か新しい知識を身につけるようなことではありません。むしろ、信仰が発達するにつれて、自分の内側に今まで潜んでいた性質、素質、感受性が磨かれて現れてくるのです。すると、外側のあり方まで変わってくる。そうでなくて、外側だけ変えようとしても本物にはなりません。

生物学では、外側の変わり方だけを見て「進化した」というでしょうが、宗教的にいうと、外側が変わるのは、何かの刺激によって内側の生命が発酵してきて、これまで現れなかった性質が表出してくるからです。植物でも動物でも、それまでと違う困難な環境に置かれると、それが刺激となって今まで隠れていた素質が現れてくるものです。

それで、十字架の苦難を前にして、キリストが最高の霊的真理を語っておられる。私たちには、そのようなギリギリの状況において新しいものの発見がある。否、新しい発見というよりも、新しい何かにすがらなければ解決しないと思う反面、自分自身の中からも沸騰するように何か新しいものが生まれてくるのです。かくして魂の目が開けるのです。

自分の中から発酵してくる真理

私の長男は、通産省の工業技術院でトランジスタの研究をやっております。最初、彼が大学の卒業論文のテーマとしてトランジスタの研究をやろうとした時に、私は「研究するのに大事なことは、若い時に破天荒な発想をすることだ。普通の常識や、本に書いてあることの受け売りをするな。おまえはキリストの信仰をもっているのだから、キリストの霊感を受けて研究したら、人が思いつかないことができる。それに、科学の最先端のことは、本なんかには書いていないのだから、神に聞いて研究するんだよ」と言いました。

当時、トランジスタの研究は、まだ始まって10年ばかりでしたから、大学の教授も教えられない。それで、自分独りでこつこつ勉強しておりました。そして、大学を卒業した後も、通産省でなお研究を続けておりましたが、ある時、 ふっと何かに気がついたらしく、「ぼくには夢の中で示されたことがある。それは今のトランジスタの常識に反することだけれど、いけると思う。お父さん、どう思うか」と言うから、「私にはよくわからないが、人の気がつかないようなことをするのが大事。それをやってみたらいい」と言いました。その論文が学会の雑誌に載りました。それが、電子工学でこのごろいわれている「エピタキシャル」(※注)の原理です。その後、世界でその研究がどんどん進められています。このように、最初は彼の中でフツフツと沸騰していた程度のことが、今は電子工学の世界で支配的な問題になっていて、この最先端の問題の解決がつけば大きな技術革新につながるというのです。

息子は、「ぼくは運がよかったんだ。偶然ひらめいたことが今につながっている」と言いますが、それは偶然ではない。すべてそうなんです。私たちが頭でわかるというときは、最後の結果がわかるのであって、その結果以前の世界、原因の世界はよくわかりません。信じる以外にはない。ふっと霊感的に悟る以外にはない。その悟ったことを追跡しているうちに、えらいところに自分が来てしまっていることを知って驚くのです。

これは信仰も同様です。ただ宗教の教理を頭で信じていても、救われるものではありません。しかし、魂のレンズに何かが霊感され、やがて自分の中にフツフツと沸いてくるものに導かれるならば、ついには高い次元にまで来ていることを知るのです。

(※注)エピタキシャル

コンピュータの回路を構成する基礎となる半導体を製造する技術で、半導体の基板上に結晶を成長させること。

キリストが現そうとされる栄光

ここで、キリストが十字架の死によって驚くべき栄光の世界に入ってゆかれる。しかし、普通の人にはそれがわからない。弟子たちにもわからない。けれども、人間にとって死ぬということは、決して悪いことではありません。大きな生命の世界に行くことなのです。地上に残る人にとってはつらい、さびしいことですけれども、本人にとっては大きな発展であり、幸福の門です。死んでこの肉体は朽ちても、魂を入れている霊の体というものは滅びることはありません。これを「栄光の体」と申します。

キリストは弟子教育の最後、高い山に3人の弟子を連れて登られた時、御顔のさまが変わって、まばゆい栄光の姿を現された。弟子たちはそれを見て驚いた、といいます。それは普通の状況では見えるものではないけれども、彼らが特別な心の状況にありましたから見ることができたのです。私たちもそうありたいと思います。

キリストは「最後の遺訓」の中で、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。再び助け主としてやって来る。それは真理の御霊であって一切のことをあなたがたに教えるだろう。わたしが地上において導いた以上に、この御霊はあなたがたを導くだろう。わたしが死んで父なる神のもとに行ったら、きっとそうなるよ」ということを言われました。

十字架の死の後、キリストは復活し天に昇られたが、ペンテコステの日に嵐のごとく、火のごとくに、120名の者たちの上に御霊となってやって来たもうた。そして、それまでと全然違う信仰生活が弟子たちに始まりました。かくして初代教会が起こったのです。

やがて私は死ぬでしょう。けれども、若い諸君たちがこの原始福音の信仰を嗣(つ)いで、いよいよ前進してゆかれることと思います。私たちを導かれるキリストは死にたもうことはないから大丈夫です。どこどこまでも希望があります。「幕屋は手島が死んだら、すぐに瓦解(がかい)してしまうだろう」と心配する人がいます。しても結構です。大切なことは、神の御旨が地上に確立するということであって、ちっぽけな幕屋の外側などは、どうでもよい。いよいよ神の御心を知る民が、続々と出てくるということのほうが大事なのです。

十字架の栄光の道を

ヨハネ福音書は、私は今まで何度も講義してきました。しかし読むたびに、ここに描かれたイエス・キリストの尊さ、偉大さは形容できません。あまりに隔たっている自分、とてもキリストの弟子などと口にできないと思うくらいの距離を感じ、「ああ、もっと励まなければわからない」という思いがわいてきます。それで、昨年は13章の終わりまで講義しましたが、そこで行き詰まってやめておりました。

しかし、この3月にイスラエルに行った時のことです。キリストが最後の晩餐(ばんさん)をなさり、「最後の遺訓」を語られたエルサレムの二階座敷(アッパールーム)に行きました。そこはまた、ペンテコステの日に御霊が120名の者に降(くだ)った所でもあります。私はそこで、「主様、あなたはここで最後の遺訓を懇々(こんこん)と弟子たちにお語りになったんですね。私は日本に帰ったら、もう一度あなたの最後の遺訓を読んでみます。どうか、昔と同じように今もいましたもうて、あなたの遺訓が何であったかを教えてください」と祈りました。

そこで瞑想していましたら、ハッと思い当たったことがあります。キリストは最初、ヨルダン川で洗礼を受けられて、聖霊が鳩のごとく臨んだ時、すぐ聖霊に追いやられて荒野に行き、悪魔に試みられました。悪魔はもろもろの地上の栄華を示して、「もしあなたが私を拝するならば、この地上の栄華を与える」と言って、キリストを誘惑しました。しかしキリストは、この地上の栄華を欲したまわず、「サタンよ、退け!」と言って、ただ神に仕えることだけを欲されました。そして、生涯の最後は地上の栄耀栄華を捨てて、「わたしは、今や十字架にかかる。しかし、これによって神はわたしを栄化したもう。また、わたしは神を栄化することができる」と言われました。そのキリストの伝道生涯の最初と最後の言葉を思い合わせて、何かキリストの御心がわかったような思いがしました。

そこで私は、「神様、地上の栄耀栄華、それは自分がすでに捨てたものでありますが、日本に帰りましたら、今度は十字架のどんな辱めをも受け、どんなに人々が悪口を言っても、あなたが説きたもうた福音をまっすぐに説いてまいります。そして、あなたの体験したもうた神の不思議な力を人々に伝え、多くの人々が、あなたにある喜びに入ってゆくようにいたします」と祈って、短い生涯を覚悟しました。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年6月号 “Light of Life” に掲載されています。