聖書講話「地は主の愛で満ちている」詩篇33篇1~5節
正しき者よ、主によって喜べ、
詩篇33篇1~5節
さんびは直き者にふさわしい。
琴をもって主をさんびせよ、
十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
新しい歌を主にむかって歌い、
喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
主のみことばは直く、
そのすべてのみわざは真実だからである。
主は正義と公平とを愛される。
地は主のいつくしみで満ちている。
(以下略)
目に見える現実がどんなに大変でも、神の愛を信じて生きるならば、喜びの声を上げることができる。それが聖書の信仰です。神と共に歩く人生です。今回は、そのような信仰に至るために大事な心を、詩篇33篇を通して語ります。
北アルプスを仰ぐ長野県白馬村で開かれた全国夏期聖会で、2日間にわたって語られた講話です。(編集部)
正しき者よ、主によって喜べ、
詩篇33篇1節
さんびは直き者にふさわしい。
詩篇33篇は、直訳すると「主にあって正しき者たちよ、喜び叫べよ」という言葉で始まっております。
「喜べ」は、ヘブライ語の原文を読むと「ラネヌー 喜び叫べ」となっています。もううれしくてたまらず、大声を上げずにおられない状況です。ほんとうに神に対する賛美があったら、小さい声でモゾモゾ言いません。大きな声で「神様、うれしいです!」と言うのが本当です。
「正しき者」とは「ツァディキーム」というヘブライ語で、「神の御心にかなう者たち」、また「神の心を心として生きる正しき者たち」です。
さあ、私たちも「感謝です、神様!」と言おう。神様、はるばるこの白馬まで全国から集うことができて感謝です、と。「感謝です、神様!」(一同で叫ぶ)。そう、そのように喜び叫べ、という言葉ですね。もう、うれしくてたまらない、これが本当の信仰者の姿です。
「さんびは直き者にふさわしい」とありますが、「直き者 イェシャリーム」とは、「正しい、まっすぐな者たち」という意味です。4節に「主のみことばは直く」とありますが、この「直く ヤシャル」と同じ言葉です。まっすぐな人間、よこしまでない、曲がったことをしない、まっすぐな人生を歩く者をいうのです。
正しい者、直き者といっても、これは自らを「私は正しい、正直な人間である」といって義認(ぎにん)する、という意味ではありません。当時、義人といえば、神にひたすら寄りすがって生きている人をいったのです。ですから、自分は正直な人間だから神を賛美するにふさわしいのだ、という意味ではない。神にひたすら頼んでいる人の賛美はほんとうに美しい、ふさわしいのだ、というのです。
私たちは無知で、しくじりやすい者です。しかし、心だけは神に向かってまっすぐ生きようと願っています。それで心のまっすぐな人たちが、真に賛美することができるのです。
完璧を心がけて演奏せよ
琴をもって主をさんびせよ、
詩篇33篇2~3節
十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
新しい歌を主にむかって歌い、
喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
さらに、神様を賛美するというのは、口だけではなく、楽器をもってでも精いっぱい賛美することである、十弦の立琴という、弾き方の難しい琴を使ってでも表現しなければいけない、と言っております。新約聖書ヘブル人への手紙13章15節には、「賛美の供え物を献げよ」という内容の言葉があります。そうすると初代教会時代においては、ほんとうに神様が喜びたもうものは、心からわき上がる賛美の歌声であった、と考えていたことが察せられます。これは、神を賛美するうえで大切な姿勢を示しています。
3節に「新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ」とありますが、私たちの信仰が活き活きとしていましたら、次々と新しい歌が生まれてくるものです。この聖会のために、私はモーツァルトの曲に合わせて新しく賛歌を作りましたが、どうか精いっぱい歌ってほしい。
「巧みに琴をかきならせ」とありますが、ヘブライ語の原文を読むと「全きを期して、完璧を心がけて弾け」という意味合いです。
天国というものは厳密な世界です。神様はすべて私たちの過ちをお赦(ゆる)しになります。けれどもそれをいいことに、いいかげんな気持ちで賛美してはいけない。私たちは、神様に赦された感激があるならば、精いっぱい主をほめまつらなければなりません。ただ口だけを動かすのではない、楽器を奏でることについても、全身全霊を挙げて神を賛美するような信仰をもちたいものだと思います。
最高の指揮者の奏でるシンフォニー
主のみことばは直く、
詩篇33篇4~5節
そのすべてのみわざは真実だからである。
主は正義と公平とを愛される。
地は主のいつくしみで満ちている。
なぜ大声で歌い、完璧に演奏して神を賛美しなければいけないのか。原文を見ると、日本語訳では4節の最初に「なぜならば」という言葉が抜けています。ですから、「なぜならば主の言葉はまっすぐだからである。また、そのすべての御業は真実だからである」というのです。主なる神様のなさることは実に真実、信頼するに足るだけの確実なものです。だから、私たちはいいかげんに歌ってはいけない、ということです。
この白馬岳の高い所にでも登りますと、全宇宙が天地相呼応して妙なる交響楽を奏していることを感じます。また、滝の音、森陰にそよ吹く風の音を聞いてみても、なんと清々(すがすが)しいだろう。このような全宇宙をして、大シンフォニーをもって、また時には独奏(ソロ)をもって弾かしめたもう神様は、なんと素晴らしいかと思います。こういう大交響楽の指揮者がおられるときに、下手な歌い方、下手な演奏では、神様を喜ばせません。
私が若いころに観た、『オーケストラの少女』というアメリカ映画があります。
失業音楽家である、主人公の少女の父親たちが仕事がないことを嘆いている時に、少女は「大丈夫よ、みんな腕はいいんだから」と言ってオーケストラを作ります。そして、当代一流の指揮者ストコフスキーという先生のところに行って、「私たちの楽団の指揮を執ってください」とお願いした。歌を上手にうたうこの娘の言う話をむげにもできないが、忙しいので断った。ところがある日、その少女が楽団員をこっそり先生の家に導き入れて、演奏させる。聴いてみると、妙なるシンフォニーが鳴り響く。そのうちに、先生自ら指揮をしはじめるのです。楽団員たちも先生の指揮に合わせて、喜んで演奏します。
そしてついに、この大指揮者の指揮で失業者楽団の演奏会が行なわれることになり、大ニュースになった。その演奏会の最後に、少女がストコフスキー先生に紹介され、先生の指揮に合わせて、先生のために精いっぱい独唱する、という映画です。
この詩篇には、なぜ完璧な歌い方、演奏をしろとあるのか。最高の指揮者、最高のシンフォニーの作曲者でありたもう神様を喜ばせるような世界、これが宗教的世界だからです。そのときに、私たちが賛美歌をうたうにしても歌い方が違ってくる。また、伴奏をする者も、自分の伴奏を光らせるようなことをせず、皆の引き立て役をするようになります。
神様の喜ばれる賛美
しかし、テクニックにおいても全きを期せよ、とはいうが、ただテクニックだけの音楽なんて聴いてはおられません。肝心なことは、心が外にあふれて叫びとなることです。だから、私たちは音楽についての素養がないとしても、精いっぱい歌うのです。
先日、東京の私の家の改装のために、神戸で塗装業を営む岩下長治君が来ていました。岩下君は終戦の年に私生児として生まれ、人にもらわれ、もらわれして育ってきました。養父からひどい扱いを受けたり、山伏(やまぶし)に売られたりと、暗い流浪の旅が続きました。その後、保護され、施設に入れられても逃げ出しては捕まり、ひどい折檻(せっかん)に遭う。その繰り返しでした。
でも1年だけ通った小学校で、いつも心にかけてくれた永水幸子先生のことは忘れられませんでした。ある時、永水先生から「寂しいでしょう。でも幕屋という所がある。そこに行ったらあなたは幸福だ」という手紙をもらって、幕屋に集うようになった。彼のように不幸に育った人が救いの世界に入るのは、容易なことではありません。しかし、キリストは今も生きて、哀れな魂を見いだしてくださいました。その彼が、共に改装の奉仕をしてくださった人たちで集まっていた時、「これは私の歌です」と言って賛美歌をうたいました。
花ちり失せては薪(たきぎ)にうられ 家まずしければひとにすてらる
たれをか頼みてなににか頼らん ただ神のむすぶ愛の友あり
彼は下手なんです。だが、目に涙をいっぱいためて彼が歌う時に、魂の音楽を聴くんです! これこそ神を喜ばせまつるものだ、と思った。
すると、その場にいた人たちも途中からそれに和して歌い、もう皆が感極まって抱き合い、泣きしびれたことがあります。これが本当の賛美です! 「全きを期せよ」というのは、魂の全きをいうんです! 魂の抜けた、テクニックだけの音楽ではない。魂が抜けた賛美などは、音符に合っていても、そんなものを神は喜びたまいません。
(※こちらから、このエピソードの関連動画『花散り失せては』を視聴できます)
神様は義と愛
5節に「主は正義と公平とを愛される」とあります。神には2つの大きなご性格があるといわれます。1つは、神は義である、ということです。私たちが、なぜ神を精いっぱい賛美しなければならないかという理由は、神が偉大なるシンフォニーの指揮者であるから、というだけではありません。神は義なる方である、正しく厳格な面がおありだからです。
神は、宇宙の正義、神の義の上に立つ律法で支配しておられる。ですから、神の法を乱すようなことを考えてはいけない。今の人は何でも、人間は偉いんだ、自由だと言います。また、人間が作った法律だから、法律は守らねばならぬと言います。しかし、神の法というのは、そんな程度のものではありません。人間が作った法とは次元が違います。
たとえば、ここにタオルがあります。タオルを手放しますと落ちます。だれがやっても落ちます。これは万有引力が働くからですが、この引力のように宇宙を支配している法則があります。いくら人間が思い上がっても、この法則を曲げることはできません。そのように、神が全宇宙を治めておられることに対して、厳(おごそ)かな思いをもって生きねばならない。
だがその一方で、「地は主のいつくしみで満ちている」とある。「いつくしみ ヘセド」というヘブライ語は、善意、親切という意味を含んだ愛です。神のもちたもう、もう1つのご性格は愛です。地にはいろいろな汚(けが)れがありますけれども、神はそれをヘセドをもって満たされている。私たちが無知な、つまらない人間であるにもかかわらず救われるのは、主の御愛が全宇宙に満ちているからです。
「全地は主のいつくしみで満ちている」、なんという美しい、いい言葉じゃありませんか。このように主の御愛で満ちている世界、これがわからない人は神様を賛美しないでしょう。しかし、一木一草、見るものすべて、地上は神の御愛で満ちていることを感ずる人には、賛美が口をついてやまない、というのです。
このような神の世界を見る心。私たちは汚れ果てた地上の生活の中にも、実に美しいものをしばしば見ることができます。見るたびに神への賛美がわいてならない。この心が宗教生活上、まず大事です。「地上は忌まわしいことばかりじゃないか。神なんてあるものか」と言う人がいます。だがある人は、この岩下君のようにどん底の生活を通っても、「神様、暗い過去があればこそ、今のささやかな光が大きな光に映ります」と感謝しています。このような違いは、どうして起きるのか。
天地即応する心
スウェーデンボルグ(※注)という18世紀の神秘思想家がいますが、彼は自分の哲学にとって重要な心得を「コレスポンデンス」といいました。correspondence(コレスポンデンス)という英語は、「文通、通信、一致」というような意味ですが、動詞のcorrespond(コレスポンド)は「cor-(互いに)respond(応答する)」という語で、「即応する、符合一致する」という意味があります。彼が説くのは、すべて自然界の事物は天界の事物に互いに対応している、ということです。
私たちはこの白馬連峰の麓(ふもと)に参りまして、空を仰いでは「空が美しいなあ、なんて自然は素晴らしいんだろう」と思う。しかし、ただそう思うだけだったら宗教になりません。地上を見て、天上の何かを感じる力、コレスポンドする力がないならば、神を賛美することになりません。このことが、私たち現代人の信仰にいちばん大切なことです。
ルカ福音書10章21節を読むと、伝道に遣わした弟子たちが不思議な業(わざ)をなして帰ってきたのを見て、イエスは聖霊にあって喜びあふれて言われました、「天と地の主である父よ、あなたをほめ賛えます。これらのことを、知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子に現してくださいました。お父様、これはまことに御心にかなったことでした」と。
神の不思議な御業を、知恵のあるインテリには隠して、幼な子のような無学な弟子たちに現されたことを、キリストは感謝されました。幼な子は純真無垢です。それでハッと即応して、コレスポンドして感じます。理屈を言わなくてもわかります。
たとえば、赤ちゃんが生後3カ月にもなりますと、こちらがニッコリ笑ってみせると、ニッコリ笑います。また、しかめ面しますと、何だか不安な表情を示します。コレスポンドする力があるからです。外に起きた現象を、何かはわからないが、心の中でビリビリッと感ずるんです。今のキリスト教では、神学校にでも行って神学の理屈を学べば神がわかると考えています。しかし大事なことは、私たちが幼な子のような心になって、見えない実在の世界をハッと受け取れる状況に入ることです。
イエス・キリストは、野の百合を示し、空の鳥を示してでも、神様の愛を説くことがおできになりました。地上の自然を示して、それを天上の世界に翻訳するようなコレスポンドする力、これは人の説明を聞いて、それを信じ込むこととは違います。この心が開けない限り、どれだけ宗教を学んでもだめです。どれだけ聖書を読んでもわかりません。
これは、難しいことではありません。宗教を難しくしてしまう現代、私たちは素直な、純粋な心だけもっていたら、「そうです、神様、そうです」と言うことができるのです。
どうぞまず、「汝(なんじ)ら翻(ひるがえ)りて幼な子のごとくならずば、天国に入るを得じ」(マタイ福音書18章3節)とイエス・キリストが言われたように、私たちも翻って幼な子のような純真無垢な心になることを願います。理屈を言うのはやめましょう。そして、ただ神様に信じて、お互いに愛し愛されて生きることです。そのときに、ほんとうに神の御心が私たちに理解できるのです。
(※注)イマヌエル・スウェーデンボルグ(1688~1772年)
スウェーデン出身の科学者、神秘思想家。自然科学全般を修め、数々の発明をする。後半生は霊界を見た体験に基づいて多くの著作を残し、ゲーテやドストエフスキーなど後世の人に影響を与えた。
(1973年)
本記事は、月刊誌『生命の光』2020年8月号 “Light of Life” に掲載されています。