聖書講話「何でも願うことをなす」ヨハネ福音書14章12~19節
イエス・キリストは世を去る前、「わたしが父なる神の御許(みもと)に行ったならば、真理の御霊としてやって来て、おまえたちを助ける。何でもわたしの名を呼んで願えば、大きなことができるぞ」と弟子たちに言われました。そのとおりに弟子たちは御霊を受け、偉大な業をなしました。
前回に続き、イエス・キリストの「最後の遺訓」 をヨハネ福音書を通して学んでまいります。(編集部)
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」
ヨハネ福音書14章12節
イエス・キリストは十字架にかかられる前夜、弟子たちに最後の遺訓を語られました。キリストは、ご自分が父なる神の御許に帰ったならば、その神の御座から助けるから、弟子たちは驚くべきことができると言われました。
事実、イエス・キリストの亡き後、弟子のペテロはエルサレムで語ると、1日に3000人の人に不思議な霊的影響が与えられ、いっぺんで回心しました。実に、生前のイエスがされなかったような大きなことをペテロはいたしました。ほかにも多くの弟子たちが全世界に散って、このキリストの不思議な助け、御霊の助けによって偉大な業をなしました。
彼らの多くはガリラヤ出身の漁夫や取税人なのに、こんな者たちが世界を動かすようなことができるはずはない。けれどもそれをなしたというならば、何かが働いたに違いない。
私たちは、ここに信仰の心を置きたいと思います。自分を見たらつまらない者かもしれません。しかしそんな者にも、キリストに宿ったあの神の霊が分かち与えられて働くならば、えらいことになります。ここに、クリスチャンとしての信仰があります。
何でも願うならばわたしがなす
「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」
ヨハネ福音書14章13~14節
ここに「かなえてあげよう」とありますが、原文のギリシア語では、「わたしがなす」です。だから13節の前半を直訳すると、「わたしの名において願う何事でも、わたしはなす」となります。すなわち、私たちが地上においてキリストの名を呼んで祈るときに、キリストはじっとしておれず、必ず反応して何かを行なおうとしておられるのです。
けれどもそのなさり方は、必ずしも私たちの願いどおりにかなえる、ということではありません。否、私たちが願うよりも、もっとよいことをなさるかもしれません。
使徒行伝を見ると、弟子のピリポが当時のイスラエルの一地方であるサマリアに出かけて伝道したら、人々は神の言葉を受け入れた、ということが書かれています(第8章)。
だが彼は、神に示されて南のガザへ下る寂しい道に導かれました。そこへ、エチオピアの高官が馬車でやって来るのに出会いました。ピリポは、「あれに近づけ」という御霊の声を聞いたので近づくと、その高官は旧約聖書を読んでいた。それで、ピリポが聖書から説き起こしてイエスのことを伝えたところ、高官はキリストを信じる者となりました。そこからエチオピアの国に、初めてキリストの福音が伝わったのです。その後エチオピアは、アフリカで有数のキリスト教国となりました。ピリポの願いはサマリアでの伝道でしたが、キリストの霊は彼をその思いとは違う、もっと大きなことへ導かれたのでした。
大事なことは、私たちは何事でもキリストに包まず願いを述べるということです。そうすると、キリストは霊界から反応するように何かをなそうとしてくださるのです。
真理の御霊はあなたがたの中に
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」
ヨハネ福音書14章15~17節
「父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」とあります。ここに、助け主を与えられる、その与えられる助け主は真理の御霊である、と言われる。イエス・キリストは「われは真理である、生命である」と言われたが、すなわちキリストの霊が真理の御霊であったということです。
助け主とは何か。真理の霊です。聖霊です。この世はそれを受けることができない。「見ようともせず、知ろうともしない」とあるように、見ようともしないし、欲しようともしないからです。聖霊などいらないと思う人には、聖霊は与えられません。
しかし、「あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におる」と言われました。「共におる」は「そばにいる」という言葉です。イエス・キリストには、助け主である真理の御霊がありましたが、地上におられた間は、この真理の御霊がそばにあっても、弟子たちはそれを見ることはできませんでした。
また、「あなたがたのうちにいるからである」は未来形ですから、「いるであろう」です。すなわち、わたしが世を去ったなら、わたしの内に宿ってあなたがたのそばにいた聖なる霊、真理の御霊が今度はあなたがたの中にあるだろう、という意味です。事実、イエスの死後、ペンテコステの日にこの御霊がくだり、弟子たちの内側に宿ったのです。
約束の御霊を待ちつづけて
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」と15節にありますので、いましめを守ったら真理の御霊が与えられると考え、この箇所にはいろんな議論があります。「いましめ」とは何か。それは愛のいましめだ、あるいは「山上の垂訓」を守ることだ、などと考える人たちもいます。それで、孤児院や病院を経営して人に尽くし、愛の実践をしたらやがて聖霊がくだる、と書いてある本もあります。
けれどもキリストは弟子たちに、そんな抽象的なことを言われたのではありません。ルカ福音書の最後を読みますと、復活されたイエス・キリストは弟子たちに対して、「わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっておれ」(24章49節)と言われています。
イエスが復活された後、ペテロたちはガリラヤの田舎に帰りました。エルサレムにいたら恐ろしい。捕らえられて十字架にかかったら大変だといって、散り散りに逃げました。
しかし、復活のキリストはガリラヤの海辺に行って、「今何をしているのか。もう一度漁師に戻ってしまったのか」と言わんばかりに、ペテロやヨハネたち、弟子のそばにやって来て、「舟の右の方に網を下ろしてみなさい」と声をかけられた。ある弟子が「あれは主だ」と言った時に、ペテロは自分の恥ずかしさに、たまらず海の中に飛び込んだ。しかし、岸に上がってみたらキリストは魚を焼き、パンを用意し、「さあ、食べなさい」と言って、何のおとがめもなくお迎えでした。そして、キリストはペテロに対して、「おまえはだれにもまさってわたしを愛してくれるか。愛してくれるなら、もう一度エルサレムに帰ってくれないか。そしてわたしの羊を飼ってくれ」と3度も迫られました。
それで、とうとうペテロは自分の意思に反して、恐ろしいけれども、もう一度エルサレムに帰りました。そして、120名の弟子たちと共に祈りに祈っておりました時に、ペンテコステの朝、一同の上に神の霊がグアーッとくだったのです。真理の御霊がやって来たのです。それからというもの、ペテロはじめ皆の者が、不思議な変化を遂げました。そして、本当の意味でのキリストの霊をもつ者、クリスチャンとなったのです。
弟子たちが、「上よりの力を着せられるまでエルサレムの都にとどまれ」とのキリストのいましめを守ったから、真理の御霊がくだったのです。
この真理の御霊があなたがたのうちにあるであろう、と言われたとおり、肉のイエス・キリストは消えたけれども、もっと確かな助け主として、今も私たちの内側から働きかけてくるものがある。しかし、この世的な人はこれを見ることができません。またこれを知ろうともしません。だから受けることもありません。しかし、弟子たちは受けたんです。
あなたがたを孤児とはしない
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」
ヨハネ福音書14章18~19節
ここで、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われている。普通の人は、肉のイエスが死んだらもうそれで終わりだと思うでしょう。しかし、イエスに宿った神の霊は永遠の御霊であって、弟子たちはいつでも見ることができました。苦しい時に、悲しい時に、つらい時に、キリストの御名を呼べば、キリストはこの世ならぬ慰めをもってやって来てくださる。そうしたらもう、うれしくてうれしくてたまらない、かたじけなさに涙がこぼれてたまらないような経験があるのです。
「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」とありますが、イエスの死後、ほんとうに驚くべきことが起きました。そのことを通して、キリストは永遠の生命である、死んでも死なない生命である、ということがわかったのです。キリストが十字架にかかり、死んでそれまでだったら弟子たちは生きられない。しかし、キリストは「わたしが生きて働くから、何事を願っても応じるよ。だから、あなたがたは生きることができるだろう」と言われました。そのとおり、何事にもキリストの霊が働き、皆が生き抜くことができました。これは理屈でありません。ほんとうに信じて経験すべきことです。
真理の御霊こそ最大の助け
16節に言われている「助け主」という言葉については、26節に「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊」とありますから、「助け主」とはイエスの名によって与えられる聖霊であります。すなわち、私たちが「イエス様!」と名前を呼んだら、「よし、助けてやるよ」といって、やって来てくださるのがこの聖霊なのです。
「助け主」という言葉は、ギリシア語で「παρακλητος パラクレートス」といいますが、「パラカレオー そばに呼ぶ」という動詞の派生語です。病気になっている時に、看護婦さんを呼んで看護してもらう。そんなときに「来てください」と人を呼ぶことから出た言葉です。また、監獄に入れられそうになって、弁護士を呼んで助けに来てもらうようなときも同様です。それで、弁護士のことを「パラクレートス」ともいいます。
あのナザレのイエスに宿っていたのは、父なる神の霊、聖霊でした。キリストは「わたしはやがて十字架にかかって姿を消す。けれども、わたしは決しておまえたちを孤児にはしない。わたしを呼んだら、すぐ助けに来るぞ。何でもわたしがなしてやるぞ」と言われたが、その時に応ずるのはこの聖霊である。だから大きい業をすることができる、驚くべきことができる、というのです。これが私たちの最大の助けです。イエス・キリストに宿ったこの御霊が私たちを携え、導いてくださるのです。そうして神の世界におらせてくださる。否、この真理の御霊と共におるところ、すでに神と共におるのであります。
私たちは今、イエス・キリストの肉体を見ることはできません。しかし、イエスの御名を呼ぶ時に、彼に宿った本質が、霊が、「ああ、おまえか」といって近づいてこられる。私たちを救うのは、この真理の御霊だけです。聖霊だけです。この聖霊が働くならば、私たちは弱くとも大いなることができます。
大いなることを期待せよ、大いなることを企てよ
200年前、インドで伝道したウィリアム・ケアリーという人がおります。彼は31歳の時に、キリスト教を非常に嫌っていたインドに出かけて福音を伝えました。さんざんな目に遭いながらも、貧しいインドの人たちの生活のために尽くし、聖書を現地の6つの言語に訳すなど、尊い業績を残しました。彼はどういうことを考えていたかというと、
Expect great things from God; 大いなることを神から期待せよ、
Attempt great things for God. 大いなることを神のために企てよ。
これが彼のモットーでした。それは彼が聖霊の働きを知っていたからです。聖霊の働きを知る者は、大いなることを企てます。そして、神様から大いなることを期待します。それは、聖霊が働いて何事でもなすであろう、とキリストが言われたからです。
私は今、神様が示されるように幕屋の民が7万にもなるならば、もっと文書伝道に力を入れなければいけない、また印刷も、もっときれいなものを出さなければいけない、と思っています。私は今年アメリカで、文書伝道に非常な力を注いでいるカリスマ的な伝道者に会いました。その伝道本部には素晴らしい印刷機がズラーッと並んでいて、多くの人が専門的にデザインや写真製版、原稿作成などを担当しています。私は幕屋も、小さいながら印刷局をつくる必要があると考えました。それにはまず、よい印刷機と付随するいろいろな設備を整えなければなりません。けれども、一度に全部をそろえるほどの経済的余裕がありません。だが、そのことを私は願っておりました。
ところが、私がある人と信仰の話をしておりましたところ、その人が「実は、外国に送るはずだった印刷機が、先方で必要ないという。ただ倉庫に眠らせていたのでは保管料がかさむだけなので、もしよかったらもらってくれないか」というのです。それはまさしく私が欲しいと思っていた印刷機でした。ああ、なんと神様は不思議なことをなさるものか、と私は驚いております。このことだけではありません。
キリストは地上にイエスとして生きておられただけでない、今も聖霊として躍如としてお働きになります。イエスの御名を呼べば、キリストの霊は助け主としてやって来てくださる。だから私たちは大いなることができるし、むしろ「何事でも願ってくれ、わたしがするからね」と要求なさいます。どうぞ、キリストの霊が私たちをして大いなることをなさしめ、神の栄光を現していただきとうございます。
(1965年)
本記事は、月刊誌『生命の光』2020年11月号 “Light of Life” に掲載されています。