聖書講話「わたしはまことのぶどうの木」ヨハネ福音書15章1~8節

イエス・キリストは自分から「わたしは救世主(メシア)である」とは言われませんでした。十字架にかかる前に愛弟子たちに語った「最後の遺訓」の中では、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。これはどういう意味でしょうか。
今回は、ヨハネ福音書15章を通して、神の言葉に導かれ、豊かに実を結ぶために大事なことは何かを語っています。(編集部)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」

ヨハネ福音書15章1~3節

「イエス・キリストは偉大な宗教家、偉大な哲人である」と言う人があります。そうでもありましょう。けれども、キリストはご自身をそうは紹介なさいませんでした。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われた。

ここでいう「まことの」は「真理の」というよりも「真の実在である」という意味です。天に実在する実体である、ということです。ぶどう畑は神の国の象徴です。父なる神様は旧約聖書以来、神のぶどう畑として、苦心してイスラエル民族を導かれたが、イエス・キリストに至って初めて地上での植えつけに成功した。その「天来の作物、ぶどうの木」である、真に実在している天のぶどうの木なのだ、と言われたのです。

地上という物質界には、天の霊的な作物は植えつけられないはずです。しかし、ついに植えつけに成功したのがイエス・キリストであった。これがキリストご自身の自己紹介でありました。

キリストという大きなぶどうの木、それに連なる枝、これが十二弟子たちであり、その流れを汲む私たちです。どうぞ、神の実在に触れ、実在の天の作物であるキリストに連なる者らしく、私たちはこれを知らない人々とは全然違った存在でありとうございます。

天の生命が流れる者たち

ここでキリストは、「わたしはぶどうの木である。おまえたちはその枝である」と言われる時に、3年の間、手塩にかけてお育てになった弟子たちを見るにつけ、ご自分と同質の天の生命が流れているとお感じになったのでしょう。神様が地上に植えつけたもうた天の作物である自分に流れている生命が、みずみずしい樹液のように弟子たちの中にも流れはじめているのを感じられて、キリストはどんなにおうれしかったかわかりません。

キリストはここで、「我こそは救世主(メシア)である」というような言い方をしておられない。むしろ、自分は何者でもない、自分をキリストとして地上に植えつけなさったお方によって自分はあるのであって、父なる神なくして自分などはない。だから、わたしは天の父が語り、命じたもうことをするだけだ。これがキリストの意識でした。そして、そのような自分につながっている枝がおまえたちだ、と言われるのです。

枝は幹と一体です。イエス・キリストに流れていたのと同質の生命が、私たちの内にも流れはじめるときに、キリストと私たちは一体関係にあるということがわかります。

キリストに流れていた生命とは何でしょうか。天の父なる神の霊、聖なる御霊、天上の生命であります。この天上の生命が天降って、地上の人間である私たちにも注がれ、流れだした。このような驚くべき出来事がキリストを通して地上に起きたのです。

どこからわいてくるか知らないが、私たちのような罪の体にも脈々としてわいてくる生命。この生命を汲んでいる者が本当の意味のクリスチャンです、真に実在しているぶどうの木の枝です。そのように、私たちの信仰は架空な思想や説明のことではありません。

たわわに実るブドウ(イスラエル)

実を結ぶための剪定

「わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである」(2節)とあります。「とりのぞき」とはギリシア語の「αιρω アイロー」で、単に何かを取り除くことです。それに対し「手入れしてきれいにする」と訳された語は「καθαιρω カサイロー」で、清める、庭木などを剪定(せんてい)する、悪いところを取り除く、という意味です。

たとえば、庭木の手入れには剪定が必要です。バラは枝を伸び放題に伸ばしていたら、小さな花しか咲きません。それで、悪い部分は切って捨てます。また、トマトを栽培するときも、余計な芽は摘んでやらないと大きな実がなりません。

キリストは、「わたしにつながりながらも実を結ばぬ枝は、天の父が除(の)けておしまいになる」と言われます。キリスト教という名前はついていても、何ら天の実を結ばないならば、そんなものは天の作物として役に立ちませんから取り除いておしまいになる。しかし、地上においてキリストにつながって少しでも実を結びはじめたら、もっと実を結ぶようにと有害な部分を取り除いてくださる。それが、ここでいう「清める」という言葉です。

この後ではキリストが、「おまえたちはわたしに留(とど)まっているならば多くの実を結ぶ」と言われています。私たちは何のために信仰をしているのか。それは実を結ぶためです。

キリストはぶどうの木であり、その枝が私たちである。枝の目的は葉を茂らせることではなくて、実を結ぶことです。「私は枝のままでいいです」と枝が葉をいっぱい茂らせているならば、枝の目的を達していない。それを手入れして剪定してやらないと、どうしてもよき実を結びません。

なぜ私たちの信仰生涯が実を結ばないかというなら、それは手入れをしないからです。悪い部分をちょん切らないからです。自分を清めないからであります。

そう言うとある人は、「私も自分を手入れしたい。でも、どうしたらいいでしょうか。何を捨てたらいいでしょうか」と言います。しかし、物質的な、この世的な何かを自分から取り去ることが、キリストの言われる「清める」ということではありません。

その後を読むと、3節に「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」とありますが、これは神の霊を含んだ言葉のことです。これが大事です。

使徒行伝10章には、使徒ペテロがローマの百卒長コルネリオの家でキリストを語りつつある間に、聖霊がガーッと臨んで、皆が聖霊に満たされ、異言状態になった、と書いてあります。そのように、聖霊を注がれた人によって神の言葉が語りかけられるときに、私たちに不思議な出来事が起きるのです。

霊の言葉が清める

先日の南紀勝浦(なんきかつうら)で開かれた聖会に、ひどい乳がんを病んだご婦人が来ていました。この人はひどく勝ち気な性分で、信仰の上で私はあまり感心しませんでした。その人がある時、がんになった。でもそれがわかった時には、すでにひどい末期状態だったそうです。それで聖会に来ても、患部が疼(うず)いて、居ても立ってもいられないようすでした。私は、特に病のいやしを祈ってあげることはしませんでした。でも、彼女はいちばん前で私の聖書の話を聴いていました。

ところが聖会の後この人に会いましたら、すっかり元気になって「先生、こんなによくなりました。うれしい!」と言って抱きついてきなさった。私はびっくりしました。それで、「あなたはほんとうに美しい顔になったじゃないの。がんが治ったことよりも、あなたの精神的な美しさ、信仰美が顔に漂っているのを見るほうがうれしい」と話したことでした。

どうですか、神の霊を含んだ言葉は、人間の頭では考えられないような働きをするということです。「主よ、あなたの御言葉の清める力は、なんと不思議でございましょう」と言って、キリストの御名を賛えました。

私が話す言葉は人間の言葉です。しかし、聖霊に満たされた状態で語りかけるならば、その言葉は不思議な生命、養分、霊を含んでいて、それが清める力をもっているのです。

ですから、イエス・キリストが「わたしが語りかけた言葉によって、あなたがたはすでに清くされている」と言われるのは、私たちが何かの欲を捨てるから救われるというのではなく、キリストの語りかけたもう言葉が、私たちの悪い部分を取り去る不思議な力をもっている、ということです。聖霊の漂う集会に来ると、しばしば不思議なことが起きます。あんな悪かった人がどうして変わって信仰をもって生きはじめたのだろうか、と思うような不思議な清めが起きる。それで、私たちがいつも清くあろうと思うならば、霊的な雰囲気の中で語りかけたもうキリストの言葉によって清まる以外にありません。

世の中には、禁酒、禁煙、禁欲でもすれば救われるように思う人がおります。しかし、イエス・キリストはそうは言われない。キリストが語りかけられると、らい病さえ清まりました。また、マグダラのマリヤのような罪に爛(ただ)れた人間すらも清まってしまう。こういう不思議な神の言葉があるんです。

わたしに留まっておれ

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである」

ヨハネ福音書15章4~6節

この「つながる」という言葉は、ギリシア語で「μενω メノー 留まる、定住する、宿る」という意味です。「わたしに留まっていなければ」自分からは実を結ぶことができない。ぶどうの木から切り離されて、花瓶の中に活けてあるぶどうの枝が実を結ぶことがないように、枝は幹につながっていなければ実を結ぶことができない。何もなすことができません。

私たちはだれしも、クリスチャンとして多くの実を結びたいと思います。でも、どうしたら実を結べるのでしょうか。キリストのために何か役に立つ仕事をしたら実を結べるのでしょうか。そうではありません。キリストに密着して、キリストの生命が私たちの腹からわき出すことです。これが一つの条件であります。

しかし、それだけではいけません。枝が適当に剪定され、不必要な部分が切り取られなければいけない。キリストの有り余るようなエネルギーを用いて、キリストがお好みでないことをしても、それでは神の栄光を現すことはできません。

よく私にこう言って勧める人があります、「手島さん、あなたはそのように不思議な奇跡的な力をもっているならば、他の新興宗教のように大いに宣伝してやったらどうです。ずいぶん儲(もう)かりますよ」と。しかし、そのような目的のために、キリストは私たちに聖霊を注ぎたもうたのではありません。神の栄光を現すためであって、金儲けとか、世の名声とか、この世の何かのためではない。多くの痛み、悲しめる者を救うためです。その目的を誤ってはなりません。

枝の一部を切り取るというのは、外側から来る害虫やばい菌を防ぐためではない。自分自身から出てくるいろいろな芽のうちの、いけない芽を切り取るのです。すなわち自分のもっている古い性質、神の国には役に立たない素質を切り取るのです。

今まで神様は、私を恵んでくださいました。ある点については、私にも長所がないわけではありません。しかし、それらの長所も、天の作物を実らせるためには、何の役にも立たないのです。ただキリストに密着して、キリストから込み上げてくるものだけが、天の果実を結ぶために必要なのです。

キリストにくっついている間は、私たちにみずみずしい生命がわき上がってきますけれども、キリストを離れたらその生命はありません。ですから、信仰は何かの教理や信条を信ずることではなく、キリストと密着することなのです。浄土宗などでは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」といって阿弥陀如来(にょらい)に帰依し、合一することを求めます。そのように私たちも、キリストという神のぶどうの木に密着し、合一することが大事です。そのときに、天来の生命が自分に流れてきて、また自分の生命もキリストに通うという有機的な結びつきが始まるのです。

枝と幹が一つの組織であるように、密着していなければなりません。そうでないと枯れて役に立ちませんから、人々はそれをかき集め、火の中に投げ入れて焼いてしまうのです。

今もささやきたもう言葉によって 

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」

ヨハネ福音書15章7~8節

「(わたしの)言葉」とありますが、これはギリシア語の「ρημα レーマ (語られる)言葉」です。すなわち、キリストが語りかけられる言葉、御ささやきです。

私たちが目を閉じて祈ると、キリストは「こうせよ、ああせよ」とお語りくださる。そのように語りかけたもう言葉が、私たちにいつも留まっているならば、という意味です。聖書を小脇に抱えて「私は御言葉をもっている」などと、外にもつことではありません。

キリストのささやきは内なるささやきでして、内側から霊感のごとくに語りかけてくださるのです。そのような言葉が留まっていさえするならば、何でも望むものを求めよ。そうすればあなたたちに成る、というのです。

昨夜、私は一人祈っておりましたら、神様は私にはっきりと告げられました、
「今のキリスト教は、信仰を思想や神学のこと、教理のことにし、多くの人がキリスト教の思想や神学を伝えることが伝道だと思っている。しかし、おまえはそのようなことはするな。おまえはわたし自身を伝えよ」と。

もったいないと思いました。人の多い中で、キリストはなぜ私のような者を通して現れようとしておいでになるのか、私は感激でした。高遠な宗教思想や神学的解釈を述べるとなると、私は頭が悪いし、本を読む暇もそうありません。けれども、目にこそ見えませんが、この55年間、私に伴いたもうたお方を伝えることでしたら、私にもできます。私は世にある限り、今も生きて語りかけてくださるキリストだけを伝えてまいります。

キリストの面影を宿す

8節で、「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われています。ですから、キリストの弟子といわれるほどの人間ならば、イエスに結んだような不思議なカリスマ的な実が内にも外にも結ばれ、小さくともキリストの面影を宿すような人間でなければなりません。

そのために、聖霊と私たちの魂が密着し、御霊なるキリストご自身が語りかけてくださる祈りが大切です。これが信仰の極意です。私たちは、みな弱い。しかし、キリストの霊が私たちの中から込み上げるように語りかけてくる状況にあるならば、何でも求めよ、そうすれば成る。このような信仰生活を私たちは送りたい。

どうぞ、今もし行き詰まっているならばなおさらのこと、「神様、私は弱いです。また、どうしたらよいかわかりません。教えてください」と神様のささやきを求めることです。人生、どうしたらよいかわからないことが、たびたびあります。そのようなときに、聖霊が祈りの中で言い難き嘆きをもって執り成してくださる経験があれば、何を願ってもそれは成る。聖霊ご自身が働いてくださるからです。

(1965年)


本記事は、月刊誌『生命の光』817号 “Light of Life” に掲載されています。