聖書講話「主に従うまで」ヨハネ福音書21章15~19節

ヨハネ福音書21章には、復活されたキリストが、ご自分を捨てて逃げた弟子たちに現れ、懇(ねんご)ろに語られる場面が描かれています。失意の中にあった弟子たちも、やがて聖霊を受けて立ち上がり、全世界にキリストの福音を宣べ伝えてゆきます。
この講話は、手島郁郎が40代のころに語ったものです。今回をもって、ヨハネ福音書講話の連載は終わります。(編集部)

イエス・キリストは十字架につけられて死なれたが、3日目によみがえられた。その後いくたびも弟子たちに姿を現されました。ヨハネ福音書の最後の21章では、復活のキリストがガリラヤ湖の岸辺で、元の漁師に戻ってしまっていた弟子たちに姿を現され、手ずから魚を焼いて、弟子たちと共に食事をされた時のことが書かれております。

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」
イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」
イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは3度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが3度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」

ヨハネ福音書21章15~17節

「彼らが食事をすませると」とあります。福音書には、主イエスが人々としばしば食事をされたことが記されています。共に食事をしながら話すということは、宗教的に深い意味があります。愛し合うということだけではなく、思想の交流がよく行なわれる。一緒にパンを裂きながら一つの生命に連なって生活するところに、愛の喜びがあるからです。

キリストの宗教は、私たちが何か教訓を耳で聞くというよりも、キリストのおっしゃる言葉の意味をよく味読し、うのみせずに、主の御言葉の内実をよくかみ砕き、消化して、その生命を吸収しなければならない。そのために一緒に食事をされたと思われます。

キリストは別の箇所で、「わたしは天よりくだってきたパンである。それを食べる者は永遠に生きるであろう。わたしが与えるパンは、わたしの肉である。わが肉を喰(くら)い、わが血を飲む者は永遠の生命をもつ。わたしが語った言(ことば)は霊であり、生命である」(ヨハネ福音書6章)といって、キリストを食べる者がクリスチャンである、食べねば弟子ではないと語られた。もちろん、これはイエスの肉体の血や肉のことではありません。主イエスの内的生命、すなわち聖霊のことです。それを霊的な生命のマナ(※注)として食べなければなりません。

いつでしたか、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹(はつがつお)」、この山口素堂(そどう)の俳句のお話をしたことがあります。5月に食べる初鰹、青葉を目で見る山の景色、山ほととぎすの声、この3つには何の関係がありますか。全然つながりません。しかし、よく考えてみると、初鰹を「たたき」にして食べることの美味(おい)しさ、何か目にしみる、美しい山が緑なす5月の季節、それに哀調を帯びたほととぎすの声が耳で味わえる。口を楽しませるように目の糧、耳の糧を楽しんで、心の糧とする。一貫して1つのことを3つの違う要素で言おうとしていることがわかれば、この俳句も味読できます。

口で食べるだけでない、心は目から美を、耳から真理と愛とを食べるものです。左の耳から右の耳に素通りして、消化されないのでは駄目です。

そのように、キリストの宗教は神の言を味読する、そして消化して生命として力を得、さらにそれを実践経験して身読する。神の言に従順に従ってみて、体験して神の愛と真理を知って驚く喜び、これが信仰生活です。

(※注)マナ

旧約聖書の出エジプト記に書かれている、天より与えられた食物のこと。エジプトから逃れ、荒野をさまよったイスラエルの民は、日々天から与えられるマナによって養われた、と記されている。

主イエスの哀願

主イエスは、重大なお頼みをペテロにしたいのに、食事が済むまではそれを言われません。そして、会食して心用意ができたからでしょう。やっと主イエスは、ペテロに話しかけられました。

エルサレムを逃げ出した、卑怯で不信なペテロですのに、何もおとがめになりません。そして、彼が初めて回心して弟子となった時のことを回想せしめるためでしょうか、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたはケパ(アラム語で「岩・ペテロ」のこと)と呼ばれるであろう。我に従え」と、初めて出会って言われた時のように「シモン」と昔の名でお呼びになって、真の牧者、「人を漁(すなど)る者」たらしめようとなさるのでした。

そして、「おまえは何人(なんぴと)にも勝(まさ)ってわたしを愛するか」と3度お尋ねになる。十字架の前に、3度も「私はこの人を知らない」と言って主イエスを捨てて逃げた臆病なペテロに、キリストは3度、哀願するかのように愛を要求される。これはペテロだけではない、今も私たちに言っておられる言葉です。

「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるなんじの神を愛すべし」と、絶対者なる神は絶対の愛を要求したもう。何にも勝って自分を、キリストを愛してほしい、と言われる。神への愛は100分の100でなければなりません。99まで愛しても、1つを惜しんだら愛は無効となる。なまじっかな信仰は役に立ちません。それも、主イエスが世を去られた後、その後事を彼に託したいからでしょう。

ペテロは3度言った、「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。こういう愛の告白を聞いて、主はどんなにおうれしい気持ちだったでしょう。夫は、妻が自分を心から愛してくれると知ったらうれしいでしょう。また父親は、子供が自分を愛していることを聞くと、どんなにかうれしいでしょう。私の長男や次男は私を心から尊敬し、心から愛してくれます。数日前も、私はそのことを涙があふれんばかりに喜びました。

ほんとうに臆病で卑怯なペテロではあったが、その心の奥底に主を慕う愛があるということを知られ、その小さな愛情もこれを燃やせばやがて大きな愛に一変する、と思われた。かくキリストは心を砕かれ、3度までも自分を愛してくれるか、とおっしゃるお気持ち、私たちにも何かわかるようであります。

イエスとペテロの像(ガリラヤ湖畔)

「わたしの羊を養え」

キリストはペテロに「わたしの羊を牧してくれ、養ってくれ」とご依頼されます。わざわざペテロを恵んで、会食してそれを頼まれるのは、その小羊、最も愛する者が気がかりだったからです。3度、「わたしの羊を養ってくれ」と頼みに頼まれました。ご自分が世を去った後、残した愛する魂の養育をお頼みになったのです。

ペテロは傲慢で、しかも弱く卑怯で駄目な人間でしたが、イエス様は彼に大事な仕事を、聖霊の愛の遺業をお託しになります。「わたしは自分の心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。彼らは知識と悟りとをもってあなたがたを養う」(エレミヤ書3章15節)とあるとおり、イエス様は、弱いがんぜない小羊のことが気にかかってしかたがない。彼らは、飼料を与えないならば飢えて死んでしまう。駄目なペテロでしょうが、彼にもし一片の愛さえあれば、主の御霊は偕(とも)なりたもうて働き、大いなる業(わざ)をなさしめるのです。

「あなたがたがわたしを愛しているならば、わたしのいましめを守るであろう。父は助け主――真理の御霊を送って、永遠にあなたがたと共におらせてくださるであろう。何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれを成すであろう」(ヨハネ福音書14章)とあるとおりです。キリストへの熱愛なくして聖霊も作用することができません。それで、3度までも「愛する」という告白をお聞きになりたかったのです。だが、愛は告白でなく、愛は実践である。愛する者への従順である。愛は行ずるものです。

愛の中で信仰する

キリストは7人の弟子と食事しながら「わが羊を飼ってほしい」と、ほかの6人にでなく、ただ一人ペテロだけにお頼みになる。だが、これをほかの6人も、わがことのようにお聞きしたことでしょう。

信仰は独り歩きしなければ駄目です。一人ひとりが神の前に立つことです。だが、それは個人主義的なことではない。その神の前に立つ一人ひとりが、互いに交わり合わねばならない。「ただ愛によりて働く信仰のみ益あり」、愛の中で育てられた信仰には力があります。クリスチャンの信仰は、麹(こうじ)のように発酵性をもっています。

冷たく寒い冬に火鉢の灰に一つの炭火があるだけでは消えてしまいますが、火種を2つ4つ入れると、火勢強く燃えたって火は熾(おこ)るものです。

20世紀初頭、英国のウェールズにリバイバル(信仰復興)が起こり、これが北米にも影響を与え、全世界に聖霊によるリバイバルを起こす力となったが、それはまず若い人たちの集会で、ある婦人が聖霊に満たされて異言(いげん)を語りだしたことから始まったのでした。

昨夜、10名余りの幕屋の女子青年たちの祈り会がありましたが、今までにない熱い祈りをささげていました。私はこれが今後続きゆくならば、どんな大リバイバルが起きるかわからぬと思いました。信仰は独りだけでやっている間は駄目です。独りで信仰生活している間は、利己主義になり自分のことしか考えません。愛なき信仰は信仰でない。祈り合ってお互いの心が燃やされるようにならねばなりません。

17世紀にドイツで起こった、敬虔派(けいけんは)という宗教運動がそうでした。これは、シュペーナーという人が3人の友と祈り合っているうちに、信仰の霊火が燃え上がったのです。

後に18世紀、各地で迫害を受けた敬虔派の人たちを受け入れたツィンツェンドルフ伯爵がヘルンフートという一村を興して、共に祈り合うようになったら、いよいよ霊火は炎上して、モラビア派というものに成長しました。この霊的な群れに英国のジョン・ウェスレーが触れてリバイバルされるや、後にメソジスト運動に発展し、世界じゅうにその火は燃え移ってゆきました。

御霊に帯せられて

イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

ヨハネ福音書21章17~19節

18節の「よくよくあなたに言っておく」とは、原文では「αμην αμην λεγω σοι アメーン アメーン レゴー ソイ」です。「アーメン、アーメン(まことに、まことに)」というのはギリシア語でなく、ヘブライ語です。これは、イエスが重大なことを言われる前の口ぐせだったのでしょう。

「あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた」とあります。ペテロは、「私は最後まで、あなたについてまいります」とキリストの前で大言壮語しながらも、イエスが捕らえられると、掌(てのひら)を返すように主イエスを捨てて、ガリラヤに逃げ帰ってゆきました。「自分で帯をしめて」、自分自身で歩きました。自分の考え方で、自分の主義で自分を帯して、自分の力で歩き、それで失敗しました。

生まれつきのままの人は御霊のことをわきまえない、と使徒パウロがコリント人への第一の手紙2章で言っているように、ペテロはそれまで生まれつきの性質――肉(人間的な生命)のままでイエスに従いましたので、本当には従うことができませんでした。

生けるキリスト、今や姿なき復活のキリストと共に歩くためには、聖霊に帯せられて歩く以外にない。自分の肉を十字架して、霊において歩いてゆかねばなりません。

イエスはペテロに「しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」と言われますが、殉教者は十字架の横木に両手を伸ばしたまま打ちつけられ、磔(はりつけ)にされました。それを指して、「手をのばす」と言われたと取ることもできます。

伝説によれば、ペテロは晩年、ローマでの迫害を逃れようとしてローマ郊外のアッピア街道を急ぎつつあった時、生けるキリストに出会って、「主よ、どこにおいでになるのですか(ラテン語で「クオ ヴァディス ドミネ」)」と問うた。

するとキリストは、「おまえがわたしの羊を捨てて逃げてゆくので、おまえの代わりに、わたしが十字架にかかるためにローマへ行くのである」と答えられた。ペテロは、それを聞いてローマに引き返し、自分が逆さ十字架にかかって死んだといいます。それで18節の言葉は、ペテロの殉教の予言であるとも考えられます。

しかしこの「帯を結びつけ」とあるのは、霊的な意味では「御霊に帯せられる」ことです。「キリスト・イエスによって生きる者は、自分の肉を情と欲と共に十字架につけてしまったのである。私たちが御霊によって生きるならば、また御霊によって進もうではないか」と、ガラテヤ人への手紙5章24~25節にあるとおりで、御霊に帯せられる者でなければ、ほんとうに復活の霊なるキリストには従ってゆけません。

生まれつきの自分のままでは到底行きたくないような所ですが、ペテロはキリストの霊に従ってローマに引き返し、死ぬことができました。ヨハネ福音書21章でも、今や霊に帯せられているペテロですから、イエスは「わたしに従ってきなさい」と言われたのです。

キリストの行かれる所、どこへでも

イエスが十字架にかかられる前夜にも、シモン・ペテロは「主よ、どこにおいでになるのですか」と言いました。(ヨハネ福音書13章)

すると主は、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」と言われた。ペテロは「主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。あなたのためには、命も捨てます」と言うと、主は「わたしのために命を捨てると言うのか。アーメン、アーメン、あなたに言う。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを3度知らないと言うであろう」と答えられました。

その時、ペテロは生まれつきのままの性質でしたから、キリストについて行くことはできませんでしたが、復活のキリストに息吹きかけられ「聖霊を受けよ」と言われて霊的に生命が変えられ、かくて初めて主に従ってゆくことができたのです。霊的な事柄は霊的生命がなくてはわかりません。御霊を注がれた者のみがキリストの御意(みこころ)を、摂理を知って歩くことができます。

「主よ、いずこに行きたもうか」。ヨハネ福音書で何度も語られている命題、この「去処如何(きょしょいかん)、来処如何、落処如何(どこに去るか、どこから来るか、どこに落ち着くか)」とは、禅学などにおいても大命題です。去って去らず、来たって来たらず、時空を超えて永遠に存在する者に触れることこそ、すべての高等宗教の中心問題です。死生を超えた世界です。3章8節に、聖霊は風のごとく「いずこより来たり、いずこへ行くを知らず。すべて霊によりて生まるる者もかくのごとし」とあるのも同様です。

今や霊となったキリストのお姿は見えません、しかし聖霊によって歩こうとする者には、その霊姿がわかります。それでペテロに「わたしに従ってきなさい」と言われたのです。

人間はどこから来て、どこへ行くか、とは現代でも実存哲学などの問題とするところですが、ペテロは聖霊の力に帯せられて初めて、キリストに従ってゆくことができました。それは哲学論でなく信仰の力でした。

キリストの行きたもう所に、どこへでも共に行きうる心と力、この発見こそヨハネ福音書の初めにして終わりの命題です。この命題の解決のため21章の意義があります。これなくしてヨハネ福音書の完結はできないのであります。

(1958年)


本記事は、月刊誌『生命の光』831号 “Light of Life” に掲載されています。