若いひとの声「ヘボン式ローマ字のはじまり」
私が地元の横浜に帰った時、祖父から「ヘボン(注1)を知っているか」と聞かれました。「うーん、ヘボン式ローマ字といえば、パスポートや書類にサインする時に使う書き方でしょ」。話を聞いて、それが人の名前だと知りました。ヘボンは幕末にアメリカからやって来た宣教医で、Hepburn(ヘップバーン)という名前でしたが、日本人が言いやすいように、ヘボンと名乗ったそうです。
彼が横浜で生活していた場所は、私の住んでいた家のすぐ近くでした。なぜヘボンがローマ字を作ったのか? 『ヘボン書簡集』(高谷道男 編訳)を基に、私はゆかりの地を歩いてみました。
(注1)James Curtis Hepburn(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)
1859年に44歳で来日。横浜を拠点に33年間にわたってキリストを伝えた。
アジアへの熱い祈り
ヘボンが育ったころ、アメリカには海外伝道の気運が満ちていました。そして、大学生の時に、キリストへの信仰が燃えたつ信仰復興(リバイバル)を経験します。
やがて、宣教医としてアジア伝道をしたい、と心に熱く願うようになりました。
ヘボンは後に、結婚したクララと共に、シンガポール、中国の厦門(アモイ)で宣教医として伝道しましたが、クララの体調が悪くなり、数年でアメリカへ帰りました。
それからニューヨークで開業すると、当時流行していた病気への対処を評価されて、一躍有名になりました。
名声と地位を築いたヘボンでしたが、再びアジアに伝道に行きたいという思いが、どんどん大きくなっていきます。
そして、日本が開国したことを聞いて、周囲の反対の声もありましたが、多くのつながりを断ち切って、病院と住居を片付け、日本に来たのです。
日本への強い思い
私は最初に、本覚寺に行きました。ここは、開国して間もないころ、幕府側の準備が整っておらず、急遽アメリカ領事館として使用されていた所です。
そこで書簡集を開いて読んでみると、宣教を禁じる切支丹(キリシタン)禁制の高札が立つ中、ヘボンが何とかしてキリストの愛を伝えようとした、その並々ならぬ熱意を、私は感じました。
やろうと思えば大きな医療事業をすることができるのですが……、わたしは一切治療代をことわり、できる限りのものを全部、日本人に捧げるつもりです。(1860年5月14日)
『ヘボン書簡集』より
また、来日したばかりのころ、横浜で何人もの外国人が暗殺されていることが記されていました。後には生麦事件として有名な、薩摩藩の大名行列を横切って斬られた外国人の治療もしています。危険を承知でやって来たのです。
※成仏寺:開国間もないころ、領事館や宣教師の住居として寺があてがわれた。成仏寺はヘボンたちが最初に住んだ地。祈りと賛美の声が風と共に流れてくるのを感じる、不思議な場所だった。
安息日にはわたしの家でかかさず礼拝を行っています。……この異教の寺(成仏寺)が真の生ける神に祈りと讃美をささげる神の家と変わったのです。(1859年11月22日)
『ヘボン書簡集』より
ローマ字は夢への一歩
ヘボンは1日に100人以上の患者を無償で治療しつつ、聖書の翻訳をするために日本語の習得に努めました。
ヘボンが始めた翻訳には、志を共にする人が徐々に増え、和訳聖書の編纂(へんさん)と出版が、28年かかって成し遂げられました。今、私たちが使っているローマ字はヘボンが考案し、聖書編纂のための大事なツールとなりました。
ヘボンは人と話すことが得意ではありませんでしたが、患者に献身的に接して、キリストの愛を広めました。
晩年は、ひどいリューマチを患って、歩くことも困難になり、ヨーロッパで静養する時もありました。しかし、学生時代に受けたキリストの火が、魂を燃やしつづけました。
今回巡った所は、私の通学路でした。私の地元に、ヘボンをはじめ多くの人の祈りがあった。そして、今の横浜や日本があるとは知らず、驚きと感動でいっぱいです。
心を燃やして日本にキリストを伝えたヘボンの祈りは、時代を超えて私の心にも火を灯(とも)してくれました。
※大井戸:施療所にしていたお寺の近くに「大井戸」と呼ばれた井戸を見つけた。ここでヘボンは治療や生活に使う水を汲んでいたんだ。
明治時代に横浜で初めてアイスクリームが作られた。ヘボンも食べたかも? 当時のレシピで作ったアイスを食べてみた。おいしかった!
本記事は、月刊誌『生命の光』2020年5月号 “Light of Life” に掲載されています。