インドネシア紀行「メラティの花咲く国」
今年(2019年)の春、インドネシアを訪れました。
現地で伝道しておられる浅野良之さんのアパートに着くと、「ぷあーっ」と聞き覚えのある音がします。電車の発車音でした。
「日本にいるみたいでしょ。この国の電車は日本の中古なんですよ。日本の企業が全面支援した地下鉄も、開通しましたよ」と浅野さん。日本とインドネシアは、今でも深くつながっていることを実感しました。
(聞き手:佐藤佳子)
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私の父・津村量平は、戦中はアジアの国で戦い、戦後はインドネシア航路の貨客船に乗っていたこともあり、この国に特別な思いをもっていました。亡くなる10年前に幕屋の信仰に触れ、インドネシアに住む日本人にキリストの生命を伝えたいと願って、母と一緒に1年間、ジャカルタに滞在しました。今から25年前のことです。その滞在の終わりに出会ったのが、勢理客(せりきゃく)文吉さんでした。
勢理客さんは、残留元日本兵のお一人です。日本の敗戦を機に独立を宣言したインドネシアに、その地を植民地としていたオランダが再び占領しようと攻めてきた時、独立のため、日本に帰国せず一緒に戦ったのが、残留元日本兵です。
勢理客さんと父は、共に大正生まれ。また、大東亜戦争の時に命をかけて外地で戦った経験も似ていて、初対面なのに旧友に出会ったようだったそうです。一緒にいた母は、2人の話には入れなかったといいます。
父が日本に帰る時には、勢理客さんは、「私も帰りたかった……」と言って泣かれました。その5カ月後の日本海海戦記念日に勢理客さんが亡くなり、8カ月後の敗戦記念日に父が天に帰りました。
今回インドネシアを訪れたのは、勢理客さんの娘の梅子(マリアテュン)さんとお会いしたいと思ったからです。梅子さんと、その2人の娘さんが、昨年の夏、日本の幕屋の聖会に参加され、「日本に来て祈ることができるなんて、夢のようです」と喜ばれました。今度はインドネシアで会いましょう、と約束しました。
梅子さん一家は、ジャカルタ市の中心部から車で小一時間の、チェンカレンという所にお住まいです。お訪ねすると、一家全員で迎えてくださいました。通訳は、インドネシア幕屋の方にお願いしました。
こんな世界があったのか!
佐藤佳子 昨年は、聖会でお会いできて嬉しかったです。
お父さんの文吉さんと梅子さんは、どうしてインドネシアの幕屋の集会に来られたのですか?
梅子 父は、日本人の友人から幕屋を紹介されました。その頃の父は、家庭の中でいろいろな問題があり、また頭痛に悩まされていました。それで、幕屋の集会に行ってみようと言い、私が付き添って行きました。
父は無宗教でしたので、私は父がキリストに祈るようになるとは思っていませんでした。でも、皆さんがキリストの御名を呼んで真剣に祈る姿を見て、父も祈っていました。祈り終わった後、「こんな世界があったのか!」と言って喜んでいました。そして、あなたのお父さんと嬉しそうに話していました。
それから、「祈ると頭が痛くなくなる」と言って、その頃インドネシアの幕屋におられた伊藤睦生さんのお宅の集会に、毎週一緒に行きました。
佐藤 梅子さんのお父さんは、インドネシアの独立のために、再占領に来たオランダと戦った、残留元日本兵だとお聞きしていますが。
梅子 父は、戦争のことはあまり話しませんでした。近衛兵だったと聞いています。硫黄島出身で、スマトラ島で終戦を迎えました。ここに父の手記があります。
硫黄島出身の私には帰る故郷はありませんでした。故郷はもう、日本の領土ではなくなっていたからです。1945年3月17日の硫黄島玉砕のことは、週番兵が知らせてくれました。硫黄島は、全てが焦土と化し、家族も全員死んだと思いました。だから、終戦を聞いた時、すぐに離隊の覚悟をしたのです。
短銃3丁、小銃1丁で武装し1人で離隊した私は、インドネシア憲兵隊に入り、兵士の教育と兵器の修理にあたりました。最初は親、兄弟の仇(かたき)と戦うためでしたが、しだいにインドネシア人の独立の熱意にふれ、独立戦争にのめり込んでいきました。
その後、母と妹たちは疎開して無事だったと知らされました。その時は、体に温かい血が流れるように感じ、涙が出てしかたありませんでした。
幕屋の祈りと賛美歌で
佐藤 お父さんの付き添いで幕屋に来られていた梅子さんが、お父さんが亡くなられてからも集会に来つづけたのは、なぜですか?
梅子 私は父が大好きです。だから、父が喜ぶ所には一緒に行きたいと思って、付き添って行っていました。父は、幕屋でキリストの御名を呼んで祈り、ほんとうに喜んでいました。そして、自分が死んだら幕屋の祈りで、幕屋のお葬式をしてほしい、と私に言いました。
そして、「この信仰は本物だから、おまえもこの信仰で生きるように」と言い残して天に帰っていきました。父を幕屋の祈りと賛美で天に送ってもらいました。
私は父が亡くなる前に結婚していましたが、なかなか子供ができませんでした。ある時、幕屋の伊藤さんが、イスラエルへ巡礼に行くのであなたに子供が与えられるように祈ってくるから、と言われました。
伊藤さんがイスラエルから帰ってくると、私に子供が与えられました。その子は残念ながら流産してしまいましたが、私は神様を信じて祈りつづけました。そして授かったのが、2人の娘たちです。
だから、日本語の集会は言葉がよくわかりませんが、私は子供たちが祈りの中で育ってほしいと思いました。言葉でない生命が流れてくるからです。
ジョセフィン(梅子さんの次女) おじいちゃんには会ったことがありません。けれども、私はおじいちゃんが大好きです。そして、私の中には日本人の血が流れていることを、幕屋の集会に行くと感じます。
梅子 父はとても穏やかで優しい人でした。でもいろいろなことで悩んでいました。幕屋に来てからは、父はとても明るくなったんです。
私もよく人から、どうしてそんなに明るいの? と聞かれます。私たちは、経済的には豊かではありませんが、明るさは神様から来ていると思います。今は、子供たちに信仰が継がれていくことを願っています。
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最後に、梅子さんのご家族と一緒に祈りました。それぞれの言語で祈りました。外は雷と激しいスコールでしたが、お互いの父も一緒にいて、祈っているような喜びに包まれました。
私の父は、インドネシアでキリストの生命を伝えたい、と出かけていきましたが、実際は人間関係に悩んで行き詰まっていました。そんな時に出会ったのが、勢理客さんでした。この方お一人に出会えたことは何にも勝る喜びだった、と言っていました。でも、そのご家族に信仰が継がれるとまでは、考えていなかったと思います。
二十数年たった今、インドネシア語でキリストを力強く賛美する梅子さん一家の姿を、父たちが天でどんなに喜んでいるかと、胸がいっぱいになりました。
外に出ると、インドネシアの国花・メラティ(ジャスミン)の花がきらきらと輝き、香っていました。
本記事は、月刊誌『生命の光』798号 “Light of Life” に掲載されています。