若いひとの声「オトタチバナ媛の足跡を訪ねて」【ミニ動画付き】
友だち2人旅 ― 日本人の心を知る
古代から、日本人が永く語り継いできた話の中に、皇子(おうじ)とお妃(きさき)の悲しくも美しい物語があります。
今回の女子旅では、幕屋の集会に集うYさんとTさんが、神奈川県と千葉県の『古事記』『日本書紀』ゆかりの地を訪ねました。
【物語のあらすじ】
2000年近くも前のお話です。平和な国をつくるため、天皇に遣わされた皇子のヤマトタケルは、妃のオトタチバナを伴って東国に向かいます。
途中、相模(さがみ)に来た時、土地の豪族が皇子たちをだまし、野に誘い出して枯れ草に火をつけ、焼き殺そうとしました。皇子は自分の危険も顧みず、燃えさかる炎の中、妃を助け出します。皇子の命がけの愛を、オトタチバナ媛は決して忘れることはありませんでした。
次に一行が進んでいったのは三浦半島です。ヤマトタケルは、浦賀水道の向こうにある房総半島を見て、
「こんな海、ひとっ跳びだ」
と言ってしまいます。すると、海のカミが怒り、船が沖に来た時に暴風が起こって、波は荒れ狂うのでした。
ここが荒れ狂った海ね。向こう岸の房総半島を見て、近いと思った皇子は「ひとっ跳び」と言ってしまったのね。
それで、海のカミが怒りだして船が沈みそうになった。皇子の命が危なくなった時、妃はその怒りを鎮めるため、自分の身をささげて海に身を投げたんだって。
走水神社の境内の碑に、オトタチバナ媛が最後に詠んだ歌が記されているよ。
さねさし相模(さがむ)の小野に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
相模の野に燃える炎の中で、私の名を呼んで助けに来てくださったあなたよ、っていう意味ね。
命がけで救ってくれたことが忘れられなくて、妃はこの歌を、入水(じゅすい)する直前に詠んだのね。でも、後でフェリーの上から海を見た時、少し怖かった。どうして身投げなんてできたんだろうって。
わからないけど、愛なのかな。愛がそうさせたんじゃない? もちろん今の私たちが理解できるような愛じゃないと思うけど、きっと大切な心よ。
そうね、だからこの物語は、昔からずっと語り継がれてきたのね。
その心を大事にしてきたから、神社や地名も今に残っているんだわ。
※皇子が嘆き悲しみ立ち去りがたかったことで、木更津(きさらづ:君去らず)という地名になり、妃の着物の袖が流れ着いたことから、富津(ふっつ:布流津〔ふるつ〕)と地名がついた。
2人はこの旅を通し、日本人が尊んできた心に触れました。オトタチバナ媛の物語でいちばん大事な心を表す「贖(あがな)い」という言葉があります。手島郁郎は次のように語っています。
贖いの心
てしま いくろう
「贖い」という文字は、現代の日本人には全く見慣れぬ、聞き慣れぬ言葉のようです。しかし、古代の日本人には最も深い感動を呼ぶ行動でした。
この言葉の意味は、「他人の罪科(つみとが)を免れしめるために、代償を払うこと」ですが、時には、その代償として人命を差し出すことも、古代日本人は厭(いと)いませんでした。この「贖い」という言葉は、日本の最も古い古典の一つ『日本書紀』に出てきます。日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の、美しくも悲しい夫婦愛の物語がそれです。
弟橘媛が「海神の怒りをなだめるために、入水して死ぬ」などとは迷信だといって、この物語を蔑(さげす)むのが現代人でしょう。そのとおり、迷信かもしれません。しかし、日本武尊から愛されて炎の中から贖い出された弟橘媛の心には、自分の一命に代えても、この救われた感激のゆえに、夫のためには自分の生き死にすら忘れて、入水したのです。
贖いの愛は、贖いの愛を呼ぶ感激となりゆくこと、これこそ古代の日本人の血を沸かした精神なのでした。
キリストの宗教は、このような贖いの感激が基本となって信ぜられる宗教であります。「贖い」の感激は、理屈で納得できるものではありません。私たちが真っ暗な苦しい運命に泣いていた中から、現実に贖い出されてみて、初めて信ぜられるのです。
本記事は、月刊誌『生命の光』816号 “Light of Life” に掲載されています。