信仰の証し「私自身を奏でるように」

宇都由紀子

私の仕事は、プレ幼稚園(未就園児教室)のスタッフとして、1歳から3歳までのお子様方のお世話をすることです。また、午後からは自宅でピアノを教えています。近所の子供たちが「ピアノを習いたい」と言って集まって、今は8人の生徒がいます。

普段は静かでおとなしいイメージをもたれている私ですが、レッスンになると、けっこう大きな声を出して指導することもあります。

私は、そこに行きたい

私は生まれる時、母がひどい妊娠中毒症だったため、母子ともに生死の境をさまようところを通りました。母は病室で、「神様、どうか2人そろって助けてください」と祈ったそうです。

そして、幼いころに母に連れられて、幕屋に行ったことがあります。その時のあったかい雰囲気、神様の温もりに包まれたことが忘れられなくて、中学生のころから幕屋に通うようになりました。それが私の心の支えになっていると思います。

私はどちらかというと、人の後をついて歩くほうというか、普段は、だれかの陰に隠れていたい、という性格です。人に対しても、生きることにも、恐怖心がすごく強いんです。

また、私には喘息(ぜんそく)の持病があり、発作が起きると苦しくて眠ることができません。夜遅く仕事から帰ってくる主人が、苦しい気管支の所に手を当てて、祈ってくれます。

普段も喘息で思うように動けない時があるのですが、そんな日々を過ごしながら、いつも祈らないではおられない、切実に神様を求める気持ちがわいてきます。だから神様に祈る場があれば、私はそこに行きたいと思います。

聞こえてきた声

昨年の春のある日曜日。その日も私は体調が悪く、集会の会場にやっとの思いで着きました。いつ喘息の発作が起きるかわからない不安と、いつも感じている恐怖心。そういうものを抱えながら、その場に座り、天国を慕う賛美歌をたくさんうたいました。

その時、突然、私の心の中に、「歌ってちょうだい!」という声が響いてきました。それは、今はもう亡くなられた、私をほんとうに愛してくださった信仰の先輩の声でした。歌をうたうという以上に、小さく縮こまっていた私に、「あなた自身を楽器にして奏でてちょうだい!」と天から言われているのだ、と直感的に思いました。

そうして神様を全身で賛美して、天を見つめるように祈っていると、自分の思いでなく、神様の愛にすっぽり包まれるような祈りの中に入ってしまいました。

大きな平安の中にくるまれている安心感。それは、家に帰ってからもずっとなくならないんです。

晴れた空を見上げても、部屋に射し込んでくる光を見ただけでも、「ああ、ありがたいな。うれしいな。神様、ありがとうございます」という感謝があふれてくるんです。私のもともと怖がりな性格や、いろんなものすべて、このままでもいい、生きるすべてをもって神様をほめ賛えたい、という心に変えられたのです。

ちょうどその時に読んでいた聖書の箇所が、神様から私への贈り物のように感じました。

わが愛する者よ、わが麗しき者よ、
立って、出てきなさい。
岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、
あなたの顔を見せなさい。
あなたの声を聞かせなさい。

雅歌2章13~14節

「そう、それだよ!」

私は2度の流産をしていて、私たち夫婦には子供がいません。だから、この世に生まれてくることの奇跡、一人ひとりの尊さを思わずにはおられないんです。

ピアノを教えている子供たちも、職場でお世話する子供たちも、私が接するのはほんとうに短い期間です。子供たちの中には何も残らないかもしれません。でも、その人生の中の一端をお手伝いさせていただけることがうれしいんです。

ピアノ教室には、幼稚園児から20代の若い娘さんまでいます。技術が上達してきた生徒たちには、「ああ、この曲のこの部分は、こんな色の音を出してほしい」と思ってそれを伝えると、素直にそのとおりの音を出してくれることがあります。

私は、「そう、それ! それなの!」と声も大きくなっていきますね。表現してほしい色の音が聴けた時には、疲れも何も吹き飛んでしまうのです。

私が天から願われているように、その子たちの中からも、心の底から神様を賛美する人が、次々と出てくることを願っています。それは、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい」という御声が、天から一人ひとりにかけられていることを思うからです。

私自身は小さな一人かもしれません。けれど、普段の生活でも、子供たちと触れ合う時にも、神様に感謝と賛美を捧げたい。

そして神様から、「そう、それだよ!」と言っていただけたら、と思います。


本記事は、月刊誌『生命の光』2020年8月号 “Light of Life” に掲載されています。